六日市村(読み)むいかいちむら

日本歴史地名大系 「六日市村」の解説

六日市村
むいかいちむら

[現在地名]六日市町六日市

吉賀よしが川が東から西へ貫流し、南から支流立河内たちごうち川が、北から鹿足河内かのあしごうち川が合流する地点に位置する。安芸廿日市あきはつかいち街道が吉賀川に沿って通る。市場町宿場町であった。明治四年(一八七一)の万手鑑によると上領組一八ヵ村(立戸・広石・六日市・河内・野中・有飯・九郎原・蔵木・樋口・田野原・河津・立河内・畑・沢田・注連川・朝倉・蓼野・河山)の代官所・本陣があった。正保国絵図に六日市とあり高六二九石余。前掲の万手鑑は六日市六ヵ村(六日市・鹿足河内・野中・沢田・有飯・九郎原)の一つとして当村をあげ、古高一五五石余、寛永一四年(一六三七)の検地高二八〇石余、明治四年の総高三二八石余・反別五四町七反余、家数一二七(うち庄屋一・本百姓八四・小百姓三四・社家一・寺二・医師一)・人数四一九、牛四九・馬一〇、高札場一、米蔵一、五龍山ごりゆうさん神宮および小社二、酒屋一・質屋一、鉄砲一四、紙漉舟一五。

六日市村
むいかいちむら

[現在地名]長岡市六日市町

長岡町より南方に二里余を隔て、信濃川右岸の平野が開ける出はなに位置し、三国街道(現国道一七号)に沿って形成された集落。天正村名考(温古之栞)に「六ケ一三十軒・しと久保十八軒」と伝え、「六ケ一」は六日市、「しと久保」は六日市地内の地名である。もとの集落の位置は現在の龍昌りゆうしよう寺の南東の山麓辺りのしと久保くぼにあった。その後龍昌寺前の空地に移り、さらに現在の六日市の七軒しちけん町の東に移り、その後牧野氏の参勤交代の部役となったので、宿場たるべく中潟なかがたの土地を交換して現在の場所に出たといわれる。

六日市村
むいかいちむら

[現在地名]福井市六日市町

山室やまむろ村の南に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川合かわい庄に含まれたと考えられ、正保郷帳によると田方一二五石余・畠方一九六石。福井藩領で全村が天方氏の知行地であった(天方家文書)。安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると、田方二一四石三斗余・九町一反余、畑方一〇七石・六町四反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報