八鳥村(読み)はつとりむら

日本歴史地名大系 「八鳥村」の解説

八鳥村
はつとりむら

[現在地名]西城町八鳥

高尾こうお村の南西に位置し、南は大佐おおさ村と接する。西端を西城川が流れ、その支流八鳥川両岸に耕地が開ける。東城路(伯耆路)が大佐村から通じる。

村内の塚谷横穴つかのたによこあな古墳群は白山しろやま神社前方の小山に六基が並び、頁岩層中にある砂岩層を掘ったもので、全長は五・三メートル(五号)のものから二・七メートル(二号)のものまであり、羨道に石組みのあるもの(六号)もある。このような横穴古墳は出雲地方に多く、山陽側ではほかに東城とうじよう町・庄原市などに例がある程度で、出雲文化圏を示すものとして貴重。八鳥川左岸の隠地おんじ右岸日南ひなにも横穴古墳各二基があり、ほかに大仙原だいせんばら古墳(円墳)がある。戦国時代は宮氏の勢力下に入るが、直接には村域南端の蟻腰ありのこし城に拠った東氏の支配下にあった。

八鳥村
はつとりむら

[現在地名]哲西町八鳥

畑木はたき村の東、大野部おおのべ村の北に位置し、まちたにの二集落がある。町集落は戦国期の西山にしやま城下として形成されたと推定される。年未詳三月二三日の陶興房書状(平賀家文書)に八鳥城がみえるが、西山城のことであろう。寛永備中国絵図に村名がみえ、高六〇四石余、山崎家治先知とある(以後の領主の変遷は大野部村に同じ)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報