倉賀野宿(読み)くらがのしゆく

日本歴史地名大系 「倉賀野宿」の解説

倉賀野宿
くらがのしゆく

[現在地名]高崎市倉賀野町

からす川左岸にある中山道の宿駅。江戸日本橋から一二番目にあたり、東の一一番新町しんまち宿(現多野郡新町)と西の一三番高崎宿の間に位置する。中山道上州七宿のうちでも利根川筋最上流の倉賀野河岸を併せもち、また日光例幣使街道の分岐点にあたる宿としてとくに賑った。「宴曲抄」によると、正和三年(一三一四)八月武蔵国児玉こだま(現埼玉県)を経て豊岡とよおかに向かう善光寺詣一行について、その途上今宵はさても山な越ぞ、いざ倉賀野にとゞまらん」と記されており、鎌倉時代にはすでにここに鎌倉街道の宿が成立していた。天正一〇年(一五八二)閏一二月二六日には「倉賀野町人中」宛に北条氏から倉賀野伝馬掟(堀口文書)が出されており、一日に常は三疋、在陣中は一〇疋の馬数が定められている。南の八幡山北西和田わだ、東の沼之上ぬまのうえ(現佐波郡玉村町)間を結ぶ交通の要所として町場が開けていたことがわかる。同一七年一一月に宇津木氏領福島ふくしま(現同上)から欠落ちした与三郎妻子が倉賀野に潜んでいるが(同年一二月五日「北条家朱印状」宇津木文書)、これも当時の倉賀野が人口の集中する町場であったことをうかがわせる。

正徳三年(一七一三)往還通絵図(須賀家蔵)、中山道分間延絵図などによると、宿の東入口(下の木戸)北東に向かう日光例幣使街道を分岐し、追分の三角地に弥陀堂(現閻魔堂)が建ち、右江戸道、左日光道と記された道標と、文化一一年(一八一四)建立の大常夜灯がある。宿は西の入口(上の木戸)まで東からしも町・中(仲)町・上町に分れる。下町と中町の境を長野ながの堰用水の悪水路が流れ、太鼓橋が架かる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報