佐敷城跡(読み)さしきじようあと

日本歴史地名大系 「佐敷城跡」の解説

佐敷城跡
さしきじようあと

[現在地名]芦北町佐敷

佐敷のほん町の西、標高八七・五メートルの山稜中央に位置する。佐敷川河口干拓により現在は内陸部にあたるが、中世には佐敷川の河口に突出た位置にあり、南東部の山麓に登城口と町を配していた。城の構造は本丸・二ノ丸・三ノ丸・東出丸・北出丸・南出丸の六郭からなり、本丸を頂点に二ノ丸・三ノ丸・南出丸と下り、さらに本丸からY字形をなすように北と東に細長く出丸が延びる。「国誌」に「花岡城トモ云其始ヲ不知、建武二年村上伯耆守顕興入道紹覚当国ニ下リ、八代古麓ニ在城シ、一族上神出羽守重光ヲシテ当城ヲ守ラシム」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「佐敷城跡」の解説

さしきじょうあと【佐敷城跡】


熊本県葦北郡芦北町佐敷にある城跡。薩摩街道と人吉街道(相良往還)が分岐し、天然の良港をもった交通の要衝の地、佐敷にあった城跡。佐敷城は、豊臣秀吉の九州平定にともない1588年(天正16)に芦北地方を含む肥後半国19万石の領主となった加藤清正が、薩摩・肥後国境防備のための「境目の城」として築城したものといわれている。1592年(天正20)、島津家の家臣梅北国兼に一時占拠された梅北一揆の地であり、関ヶ原の戦いでも西軍島津氏の攻撃を受けた。関ヶ原の戦い後、清正は肥後一国51万石の領主となり、佐敷城は肥後国内の有力支城として整備されたが、1615年(慶長20)の一国一城令により廃城。本丸を中心に、その南に階段状に二の丸および三の丸郭、尾根沿いに出丸郭を設け、城下町と薩摩街道が走る城山東側を大手とし、桝形虎口を備えた城門が3つ連続する。本丸・二の丸・三の丸は総石垣造りとして注目され、破城の状況もよく確認できる。近世初頭の政治・軍事を理解するうえで重要な遺跡であることから、2008年(平成20)に国の史跡に指定され、歴史公園として整備された。肥薩おれんじ鉄道佐敷駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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