佐味郷(読み)さみごう

日本歴史地名大系 「佐味郷」の解説

佐味郷
さみごう

朝日あさひ町・宇奈月うなづき町・黒部市にまたがる黒部川扇状地の縁辺部に比定される。「和名抄」に新川郡の郷名として佐味がみえ、訓を「左比」(東急本)とする。また「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条では佐味駅を掲げる。古代の郷内には奈良西大寺佐味庄が位置し、宝亀一一年(七八〇)一二月二五日の西大寺資財流記帳(内閣文庫蔵)の田園山野図の項に「一巻、同新川郡佐味庄、紙、在国印」とある。また同資財帳の雑書の項に「一巻、越中国没官物并田積、五通、景雲三年」「一巻、同国稲田帳、景雲四年」「一巻、同国田積、自景雲二年至宝亀元年」とあるので、庄名は記されないが、いずれの庄園も神護景雲二年(七六八)から宝亀元年にかけての頃までには成立していたと考えられる。神護景雲期といえば、天平神護元年(七六五)閏一〇月に太政大臣禅師、翌年一〇月に法王となった道鏡が政権を担当しており、称徳天皇勅願で創建された西大寺の寺領形成に対し積極的な保護が加えられた時期にあたる。

佐味郷
さみごう

「和名抄」所載の郷。郷順は布留ふる郷の次で、高山寺本は新川郡の最後に記す。訓は東急本に「左比」(サヒ)とある。同名の郷は越後国頸城くびき郡、上野国緑野みどの郡・那波なは郡、備後国葦田あした郡などにみえ、頸城郡佐味郷の訓は東急本に「佐美」とある。新川郡佐味郷の訓をサヒと注記したのは、頸城郡等のサミの読みと異なることによるものか。郷名の「佐味」は、宝亀一一年(七八〇)一二月二五日の西大寺資財流記帳(内閣文庫蔵)の田園山野図項に「新川郡佐味庄」とみえるのが早い。

佐味郷
さみごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「続日本紀」などにみえる佐味朝臣は、「新撰姓氏録」右京皇別上に「上毛野朝臣同祖 豊城入彦命之後也」とあるから、この地と関係があるのではなかろうか。「日本地理志料」は、佐味は小水(さみ)の義とし、郷域を小泉こいずみ(現佐波郡玉村町)を中心に阿弥大寺あみだいじしばなか(現伊勢崎市)箱石はこいし飯倉いいぐら川井かわい(現玉村町)にわたる地とする。

佐味郷
さみごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。那波なは郡にも同郷がみえるが、訓を欠いている。「日本書紀」天武天皇元年(六七二)六月二九日に「佐味君宿那麻呂」の名がみえ、同一三年一一月一日では佐味君ら五二氏が朝臣の姓を賜っている。また翌一四年九月一五日には直広肆佐味朝臣少麻呂が六道巡察使のうち山陽道使者として派遣されている。「新撰姓氏録」右京皇別上に佐味朝臣は「上毛野朝臣同祖 豊城入彦命之後也」とあるから、佐味郷は佐味朝臣の本貫地とみられる。郷域について「名跡志」は三本木さんぼぎ(現藤岡市)にあてる。

佐味郷
さみごう

「和名抄」東急本は「佐美」と訓を付す。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に北陸道の佐味駅を載せる。「大日本史国郡志」は「佐味荘上条内赤沢村、今赤沢村存、即古郷域也」とする。「日本地理志料」は「越後野志」を引いて「佐味郷廃、佐味荘存」とし、さい潟は佐味潟であるとしてその付近の潟町かたまち土底浜どそこはま(現中頸城郡大潟町)柿崎かきざき(現同郡柿崎町)鉢崎はつさき(現柏崎市)一帯にあてる。

佐味郷
さみごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「佐味」と記すが訓を欠く。「大日本地名辞書」は「今詳ならず、国郡考に相方なるべしと曰ふ、然らば芦田川の南方なる諸村を指すか、今福相、有磨、栗生三村と為る」とするが、「日本地理志料」は相方さがた(現芦品郡新市町)説に否定的である。「福山市史」は府中市栗柄くりがら町から芦田郡全域にかけての一帯をあてる説と、サミをサアジと読み、サを略してアジに転じたとして阿字あじ(現府中市)を遺名とする旧版「広島県史」の説をあげる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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