伏原村(読み)ふしはらむら

日本歴史地名大系 「伏原村」の解説

伏原村
ふしはらむら

[現在地名]小浜市伏原・駅前えきまえ町・南川みなみかわ町・後瀬のちせ町・四谷よつや町・千種ちぐさ一―二丁目

湯岡ゆのおか村の西に位置し、東西に丹後街道が通る。西は小浜城下入口の欠脇かけのわき御門(現大宮)に至る。西南は後瀬山の谷間となり、中世、若狭守護武田元光の別業があったという小字別所べつしよがあり、元光創建の発心ほつしん寺がある。中世は今富いまとみ名に属し、集落のほぼ中心地に荘名の名残と思われる小字今富がある。また町場の形成をうかがわせる中町なかんじよ下町しもんじよの字名も残る。武田元光が大永二年(一五二二)後瀬山に築城、村域は弘治年中(一五五五―五八)城の外郭として利用されたこともあったようである(小畑家文書)

伏原村
ふしわらむら

[現在地名]高野口町伏原

紀ノ川中流域右岸の低位洪積台地上にある。東は神野々このの(現橋本市)、西は名古曾なごそ小田おだの諸村。村名について「続風土記」は「ふしはふし柴のふしにてふし原の義なり、其地古荒野にて柴原なりしを開発せし故に此名あり」と記す。建永二年(一二〇七)三月日の僧勢得田地充文(続宝簡集)に「高野政所河北方不死村」とみえるのが当地と思われる。応永三年(一三九六)五月日付の官省符上方惣田数分米目録・官省符上方惣畠数分麦目録(又続宝簡集)に「不死原村」とみえ、当時の田数は三八町二九〇歩で分米一二〇・〇九六石、畠数五町八反二三〇歩で分麦八・一二五五石、在家八宇で下地七反一〇歩、高野山領官省符かんしようふ庄上方に属する村であった。

伏原村
ふしわらむら

[現在地名]土佐山田町百石ひやつこく町一―二丁目・楠目くずめなど

野地のじ村の北西台地上にあり、郷帳類には当村の北から東を占める楠目村の枝村として記される。天正一六年(一五八八)の山田郷地検帳に伏原として六三筆が記される。うち屋敷は五五筆に及ぶが、のちの寛保郷帳では戸数一七となる。この減少は長宗我部検地以後に浦戸うらど(現高知市)の城下へ、あるいは近世初期に山田野地やまだのじ町へ移転したものであろうか。

伏原村
ふしわらむら

[現在地名]鹿島市大字三河内みかわち字伏原

鹿島川の支流くろご川の北部山麓にある。

正保絵図に村名がみえる。藩政時代は蓮池はすのいけ領に属し、塩田郷に入る。万延元年(一八六〇)改の郷村帳をみると御番所の印があるが、この地は鹿島藩浅浦あさうらを知行していた嬉野氏と蓮池領との境となるため、蓮池の番人がいたものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android