出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
熊本県南部,人吉盆地の中心都市。1942年市制。人口3万5611(2010)。九州山地の山々に囲まれ,清流球磨(くま)川に臨む温泉都市でもある。鎌倉時代から明治初年までの約700年間は相良(さがら)氏の支配のもとに栄えた。1909年には鉄道(現,JR肥薩線)が八代に通じ,1924年に湯前(ゆのまえ)線(現,くま川鉄道)が開通,現在は国道219号,221号線が宮崎県へ,267号線が鹿児島県へ抜け,南九州の交通の要地となっている。また,89年には九州自動車道の八代・人吉間,95年には人吉・えびの間が開通し,観光や企業誘致,地場産業の振興などに力が注がれている。名産品として球磨焼酎のほか,シイタケ,茶,アユ,釣りざおを産する。近年は,総合食品,機械工業団地も完成し,人吉球磨田園都市中核施設が建設された。球磨川南岸の断崖上にある繊月(せんげつ)城ともよばれた人吉城跡(史)をはじめ,大村横穴群(史),青井阿蘇神社礼,相良氏の菩提寺願成(がんじよう)寺など,史跡,文化財が多い。また鬼木には臼太鼓踊,大塚や田野には棒踊が伝えられている。球磨川下りの起点でもあり,また人吉温泉(含食塩重曹泉,43~48)は市街地の球磨川河畔にあり,周囲の山々を望み,とくに秋冬は朝夕,川霧に包まれて情緒ある温泉として知られる。
執筆者:岩本 政教
肥後国人吉藩の城下町。地名の初見は9世紀成立の《和名抄》で,人吉郷とある。やがて人吉荘の下司人吉次郎の館が置かれ,1205年(元久2)相良長頼が地頭職を得た。44年(寛元2)の中分状には青井宮(青井阿蘇神社),願成寺を中心に小目代館,石原町,奈良町などが見え,町が形成されていたことが知られる。中世の町は青井宮前の二日町,七日町,川原町の3町であったが,天正年間(1573-92)人吉城の改築にともなって城下町が整備され,城周辺の麓馬場,原城,寺馬場,土手馬場など武家屋敷と,球磨川を隔てた九日町,五日町,七日町,二日町,鍛冶屋町,大工町,紺屋町などが造られ,町筋九筋となった。人吉からの参勤路ははじめ陸路人吉~告(つげ)~佐敷(さしき)~八代~熊本の道筋をとっていたが,1662-65年(寛文2-5)人吉町の林正盛により球磨川が開削されて,八代まで川舟が用いられるようになった。1789年(寛政1)の人吉町の町家は696軒,人口2749人,土蔵95,問屋17であった。
執筆者:松本 寿三郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…北は福岡県,東は大分・宮崎両県,南は鹿児島県に接し,西は有明海(島原湾)をはさんで長崎県に相対している。
[沿革]
熊本県は旧肥後国全域にあたり,幕末には熊本藩,人吉藩および天領の天草,五家荘に分かれていた。天草,五家荘は1868年(明治1)閏4月富岡県,6月天草県となり,8月長崎府(のち長崎県)に編入された。…
※「人吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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