相良氏(読み)さがらうじ

改訂新版 世界大百科事典 「相良氏」の意味・わかりやすい解説

相良氏 (さがらうじ)

遠江出身の中・近世武家。鎌倉時代,肥後国人吉荘等の地頭となる。近世には人吉藩主。藤原南家乙麻呂流で,伊豆の豪族伊東氏や工藤氏と同族。平安後期周頼が遠江国佐野郡相良荘(現,静岡県牧之原市)に住し,以来相良氏を称するにいたったという。周頼4代の孫頼景およびその子長頼は関東御家人となり源頼朝に仕えた。頼景は1193年(建久4)肥後国球磨郡多良木荘の地頭として下向したと伝えられる。一方長頼(蓮仏)は98年,平頼盛の代官矢瀬主馬助を退けて,球磨郡人吉荘に入ったというが,いずれも確証はない。確かなことは1205年(元久2)長頼が畠山合戦の功により人吉荘の地頭職に補せられたことである。そして長頼は豊前国下毛郡成恒名をも領知し,弟の宗頼は肥後国山鹿郡山井名(現,山鹿市)を,同じく頼平は同玉名郡山北郷(現,玉名郡玉東町)を領知した。球磨にあっては,人吉荘を領知した頼俊の流れを下相良(人吉相良),多良木を領知した頼氏の流れを上相良(多良木相良)といい,一族を郡内に定着させていった。南北朝初期までは上相良が惣領であった。上相良は南朝方,下相良は北朝方となり対立したが,やがて下相良に惣領権がうつり,定頼・前頼は征西将軍に仕え肥前の守護職を得た。

 1448年(文安5)庶流の永富(留)相良氏の長続が下相良を継ぎ,さらに上相良を滅ぼして球磨郡を統一し,隣接する葦北郡をも制圧した。その子為続は,84年(文明16)八代の名和顕忠を追い出し,八代古麓城に入り八代を領し,さらに長毎の時代には,球磨・葦北・八代3郡のほか,天草の諸勢力をもその影響下におき,戦国大名化していった。その子義滋の時代,一族の内訌があったが,それを克服し,同族の上村氏から迎えられ養子となった晴広およびその子義陽の時代は,八代を根拠に海外貿易にも活躍し,戦国相良氏の最盛期となった。為続,長毎,晴広の3代にわたって作られたいわゆる《相良氏法度》は,初期分国法一例として著名である。しかし義陽は1581年(天正9)島津義久に下り,その圧力によって同年12月甲斐宗運と響ヶ原(現,宇城市)に戦い討死し,幼主忠房は球磨1郡のみの領知を許された。弟長毎も島津氏に従ったが,87年豊臣秀吉に敗れて降伏旧領のみ安堵され,以後幕藩体制下にも人吉藩2万2000石の大名として存続した。維新後,子爵
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「相良氏」の意味・わかりやすい解説

相良氏
さがらうじ

中世~近世の武家。遠江国(とおとうみのくに)御家人(ごけにん)、肥後国(ひごのくに)人吉荘(ひとよしのしょう)(熊本県人吉市)地頭(じとう)、近世人吉藩主。藤原氏南家(なんけ)乙麻呂流(おとまろりゅう)平安後期周頼(かねより)が遠江国相良荘(静岡県牧之原(まきのはら)市)に住み相良氏を称したという。4代の孫頼景(よりかげ)と子の長頼(ながより)は、源頼朝(みなもとのよりとも)に仕え御家人となった。頼景は鎌倉初期、肥後国球磨(くま)郡良木(たらぎ)(熊本県球磨郡多良木町)に下向したといわれる。長頼は1205年(元久2)畠山重忠(はたけやましげただ)討伐戦の功により同郡人吉荘の地頭となり、その子孫は同郡に土着した。多良木系を上相良(かみさがら)、人吉系を下相良(しもさがら)という。1448年(文安5)庶流の永富(永留)長続(ながとみながつぐ)が球磨郡を統一し隣接する葦北(あしきた)郡も制圧、その子為続(ためつぐ)は1484年(文明16)八代(やつしろ)の名和顕忠(なわあきただ)を逐(お)い八代に進出、以来戦国大名化し、晴広(はるひろ)・義陽(よしひ)の時代は海外貿易でも活躍し最盛期となった。

 この間、為続、長毎(ながつね)、晴広の各代につくられた相良氏法度(はっと)は、初期分国法として著名である。1581年(天正9)義陽は島津義久(よしひさ)に下り、その先鋒(せんぽう)として阿蘇(あそ)氏と戦って討ち死に、まもなく島津氏も豊臣秀吉(とよとみひでよし)に下り、相良長毎は旧領の球磨郡2万2000石に封ぜられ、以来相承して明治維新に至った。

[工藤敬一]


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百科事典マイペディア 「相良氏」の意味・わかりやすい解説

相良氏【さがらうじ】

遠江(とおとうみ)出身の中・近世武家。鎌倉初期,肥後(ひご)人吉(ひとよし)荘地頭に補せられて下向。室町時代には肥後半国を領有して戦国大名化。その後島津氏に下り,江戸時代には人吉藩主。15世紀末から16世紀中頃までの3代が制定した家法《相良氏法度》がある。→分国法

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「相良氏」の解説

相良氏
さがらし

中世の武家,近世大名家。藤原南家乙麻呂流。周頼(ちかより)が遠江国相良(現,静岡県牧之原市相良)に住んで相良氏を称したのに始まる。鎌倉初期,頼景は御家人となり肥後国多良木(たらき)(現,熊本県多良木町)に下向。子の長頼は同国人吉荘(現,熊本県人吉市付近)地頭となり,以後,多良木系を上相良,人吉系を下相良とよんだ。南北朝期には下相良の頼広・定頼・前頼(さきより)の3代が南朝に仕え,肥前国守護となる。のち下相良の庶家永富氏の長続(ながつぐ)が惣領となってから勢力を拡大,球磨(くま)・八代(やつしろ)・葦北(あしきた)3郡を領する戦国大名に成長。関ケ原の戦に徳川方となり,旧領を安堵され,代々人吉藩主2万2000石。維新後,子爵。「相良家文書」を伝える。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「相良氏」の意味・わかりやすい解説

相良氏
さがらうじ

藤原南家の出。天永3 (1112) 年,周頼が遠江国榛原郡相良荘に住みついたのが始り。鎌倉幕府の成立で6代目長頼が肥後国球磨郡人吉荘の地頭職に補任されて以来,肥後国南半に勢力を伸ばし,戦国大名となる。関ヶ原の戦いで徳川方に属し,人吉藩を形成。明治にいたって子爵。 (→相良家法度 )

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世界大百科事典(旧版)内の相良氏の言及

【肥後国】より

…そのため鎌倉幕府が成立すると,幕府=東国勢力の圧迫を受け,菊池氏は本領以外の大部分を奪われ,大友一族の詫磨氏などの入部を見ることになる。また広大な阿蘇本末社領については北条氏が預所兼地頭となり,球磨には遠江から相良(さがら)氏が,ややおくれて野原荘(荒尾市)には武蔵国御家人小代(しようだい)氏が地頭として入部した。 幕府を背景とする東国勢力の進出は,在地勢力との間に強い緊張関係をもたらすと同時に,新しい文化を生み出していった。…

※「相良氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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