五町村(読み)ごちようむら

日本歴史地名大系 「五町村」の解説

五町村
ごちようむら

[現在地名]高岡町五町、宮崎郡田野たの野崎のざき

浦之名うらのみよう村の北にあり、東は内山うちやま村、北は南俣みなみまた(現綾町)赤江あかえ(大淀川)南岸に飛地片前かたまえ、南東に野町高岡町がある。内山村との境界近くを内山川が南東へ流下し赤江川に入る。飛地の西方をやな(境川)、ほぼ中央を仁田尾にたお川が北流して赤江川に入る。薩摩街道は内山村より西進し、浦之名村へ向かう。慶長四年(一五九九)一二月一四日の加増名寄帳(河上文書)によれば、伊集院衆の川上次郎左衛門尉(忠宅)に加増された三二石八斗のうちに、五町村津留門のうちの上田二反余・二石余と下田二反余・一石余、米久田門のうちの下田八反余・六石余、仏神領の中田二反余・三石余があった。近世は高岡郷に属した。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳では表高四六四石余。赤江川南岸の柚木崎ゆのきざきも一村として記され、表高五〇石余。日向国覚書では柚木崎村には「川ハタ」の注記がある。「三州御治世要覧」では五町村一村で内高一千六〇八石余。「高岡名勝志」によれば高頭一千三二九石余、うち諸与御蔵入一千一八八石余で、うち庄屋役屋敷一斗余・御蔵地引高一斗余・庄屋役分二石・浮免高岡持一〇二石余・抱地三八石余(鹿児島持三石余・高岡持三五石余)。旧高旧領取調帳では高一千二六九石余。慶応元年(一八六五)の切支丹宗門改帳(天ヶ城歴史民俗資料館蔵)によれば町場を除く門数八六・人数三三八。明暦三年(一六五七)一一月二〇日から二二日にかけて東郷肥前らによる例竿が行われた際、当村・内山村・飯田いいだ村の田畠は入交じっていたため、行きがかり途中で査定していった。

五町村
ごちようむら

[現在地名]北部町みつぐ

井芹いせり川右岸の台地先端にあり、北は古閑こが村、東は上古閑うえのこが村、南は釜尾かまお村に接する。慶長一三年(一六〇八)検地帳によれば田方二七町六反七畝余・畠七〇町三反七畝余、屋敷二町二反一畝余、分米八三一石余であったが、このうち田畠合せて二四町九反八畝余・高一三三石三斗余は永荒で、家数一三五・人数一一五、牛二一・馬三とある。寛永一〇年(一六三三)九月一日の細川忠利判物(本妙寺文書)に「為当寺領寄付肥後国飽田郡之内、於五町・中尾両村参百石事」とあり、本妙ほんみよう(現熊本市)領が置かれた。

五町村
ごちようむら

[現在地名]天明町川口かわぐち 五丁ごちよう

緑川の河口に近い水田地帯にあり、東は方丈ほうじよう村、北は八町はつちよう村、西は弐町にちよう村に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると、田方五町八反三畝・畠方四町七反余、分米九九石六斗余とある。同一二年の検地帳によると、田二五町三反四畝余、うち上田二五町一反三畝余、上畠三町八反六畝余、屋敷一町四反六畝余、分米三七一石七斗余で、家数二五、男三四・女二八、馬二・牛五、蜜柑一が記される。肥後領高人畜家数船数調(永青文庫蔵)によれば、漁舟八艘、水夫二〇人とある。

五町村
ごちようむら

[現在地名]海津町五町

大江おおえ川を挟んで札野ふだの村の西にあり、南は深浜ふかはま村。慶長郷帳に五丁村とあり、高一五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領正保郷帳では尾張藩領、田六石余・畑七石余。元禄郷帳でも同藩領。明暦覚書によれば元和五年より尾張藩領で、概免一ツ二分八厘余、人数六四、馬四、池運上金一両余。「濃州徇行記」には家数二〇・人数一二七とあり、村のようすについて水場で貧村、水損不作の年には狩猟・漁労をもって世過ぎしたといい、寛政元年(一七八九)万寿まんじゆ新田の圦決壊の時は水屋の床上にまで浸水したと記される。

五町村
ごちようむら

[現在地名]八幡町五町

長良川左岸にあり、東は中坪なかつぼ村。北西対岸は坪佐つぼさ村。五丁村とも記される。慶長郷帳では高二〇四石余。正保郷帳では田方八一石余・畑方一三二石余。寛文四年(一六六四)の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)に新中間として五町長九郎がみえる。宝暦六年(一七五六)の郡上郡村高覚帳(鈴木文書)では家数一六(水呑三)、年貢定米一一九石余。安永二年(一七七三)の郡上領留記(大西文書)では本田免六ツ二厘五毛、新田免二ツ八分、加免四ツ九分二厘五毛。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報