二子村(読み)ふたごむら

日本歴史地名大系 「二子村」の解説

二子村
ふたごむら

[現在地名]北上市二子町・北工業団地きたこうぎようだんち黒沢尻町くろさわじりちよう 小鳥崎ことりざき

南流する北上川右岸の沖積低地に位置する。南は、黒沢尻村里分さとぶん、西は村崎野むらさきの村。村の西端を奥州街道が通る。地名の由来は、北西部に丸い小山が二つ並んでいるから、あるいは村内の西川目にしかわめの女が双子を生んだことによるなどと伝える(「二子物語」小原家蔵)。北上川の自然堤防上には縄文時代晩期の野田のだI遺跡、平安時代の野田II遺跡、奈良・平安時代の尻引しりびき遺跡などが分布し、北西部台地上に九―一〇世紀の集落遺跡であるあき子沢こざわ遺跡がある。同遺跡は「類聚国史」に弘仁八年(八一七)七月五日「俘吉弥侯部等波醜等帰降」とみえる首長等波醜(とばし)の根拠地で、中世には和賀氏の二子城(飛勢城)が築かれた場所と考えられている(北上市史)

慶長八年(一六〇三)頃、二子を含む稗貫ひえぬき・和賀両郡の二〇ヵ所・八千石が北松斎信愛に宛行われており(年未詳「南部利直知行宛行状」宝翰類聚)、同一五年の同人宛の南部利直黒印状(盛岡北文書)に当村の六七九石余が載る。江戸時代を通じて盛岡藩領であったが、元禄七年―宝永三年(一六九四―一七〇六)間は新田分三五三石余が五代藩主南部行信の弟旗本南部政信領(郷村古実見聞記)

二子村
ふたごむら

[現在地名]船橋市東中山ひがしなかやま一―二丁目・二子町・本中山もとなかやま一丁目

本郷ほんごう村の北西に位置し、集落は房総往還沿いに発達した。栗原くりはら八ヶ郷の内。江戸時代の集落から離れた北部台地は東中山台ひがしなかやまだい遺跡群で、奈良―平安時代前期の集落跡が検出されている。「本土寺過去帳」に「大行坊日命 寛正六乙酉正月 栗原二子」とみえ、同じく応仁二年(一四六八)正月栗原フタコ、慶長六年(一六〇一)二子石井隼人、寛永一七年(一六四〇)多聞たもん寺などの記事がある。

二子村
ふたこむら

[現在地名]高津区二子

北を多摩川が流れ、東は諏訪河原すわがわら村、南は坂戸さかど村、西は久地くじ村・溝口村に接する。村中央を矢倉沢やぐらさわ往還が通り、東は二子渡、西は溝口へ至る。りよう用水の支流ろつそん用水を灌漑に利用。上宿かみじゆく・中宿・下宿・本村ほんむらなどの小字がある。田園簿に村名がみえる。村名は東南境の二基の塚に由来するとされ、かつて鎧が出土したと伝えるが現存しない。

二子村
ふたごむら

[現在地名]御殿場市二子

沼田ぬまた村の南に位置し、西側を黄瀬きせ川が南流する。集落は本村と大久保おおくぼ新田に分れ、郷村帳類では大久保新田を枝郷大久保村(大窪村)として別筆で扱うこともあった(元禄郷帳など)。南東方の大坂おおさか村から黄瀬川を渡って当村に入り、村の中央を北上して沼田村へ抜ける道が通る。村域の東方は箱根はこね外輪山まで延び、同山を境に相模国足柄下あしがらしも仙石原せんごくはら(現神奈川県箱根町)と接している。慶長六年(一六〇一)沼津三枚橋さんまいばし城主となった大久保忠佐の所領となったと考えられ、同九年には大久保氏によって検地が行われている。

二子村
ふたごむら

[現在地名]館山市二子

加戸かと村の北東に位置し、北条ほうじよう村から清澄きよすみ(現天津小湊町)方面へ向かう道と千倉ちくら(現千倉町)方面へ通じる道の分岐点にあたる。安養あんよう寺後背の山上にはリョウシャ様とよばれる塚があり、里見家の高田姫が産んだ双子が祀られているとの伝承がある。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一七四石余(うち田一一九石余)、同一五年の里見家分限帳によると奏者梅田与九郎の給知。

二子村
ふたごむら

[現在地名]八束町二子

入江にゆうこう村の北に位置し、東は寺津てらづ村、北は中海に面する。大根だいこん島七ヵ村の一つで、後分に属する。寛永八年(一六三一)の大根島御検地帳に村名がみえ、当村は寺津村と一括して記載される。畑高一六一石余・反別三〇町四反余で、田はない。家数一四、名請人五五。元禄一三年(一七〇〇)の大根島検地帳(八束町役場蔵)では当村の高一四八石余、反別は畑三四町七反余、名請人六三。宝暦一三年(一七六三)の大根島万指出帳(同役場蔵)では家数七七・人数三八四、船数二〇。明和五年(一七六八)の上意東野路山新田所願人別書出帳(同役場蔵)によると、寺津・二子・亀尻かめしり江島えしまの四村から一二家族が上意東かみいとう野路山のじやま新田(現東出雲町)に移住を願出ている。

二子村
ふたごむら

[現在地名]播磨町二子

古宮こみや村の北に位置し、東は西二見にしふたみ(現明石市)。中世は摂津住吉神社領阿閇あえ庄に含まれていたと推定される。正平九年(一三五四)八月日の住吉社造営用途注進状(住吉松葉大記)によると、同社の造営用途として預所二〇〇文・下司二〇〇文・庄役一貫文を二子一色で負担している。慶長国絵図に村名がみえる。姫路藩領の後、元和三年(一六一七)に明石藩領(兵庫県史)となるが、正保郷帳元禄郷帳では幕府領

二子村
ふたごむら

[現在地名]安濃町中川なかがわ

大谷おおたに川右岸の平地部にあり、前田まえだ村の南西にあたる。小台地の東面に集落がある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「二子」と現れる。江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数三〇、人口一五九、牛一一とあるが、社寺についての記載はない(宗国史)。「三国地志」には、神祠に日天神祠・山王祠・牛頭ごず天王祠、寺院に道(遁の誤りか)入寺がみえる。明治五年(一八七二)の村明細帳(徳川林政史蔵)には戸数四一、人数二〇一(男九五・女一〇六)、木挽二、牛一〇。

二子村
ふたごむら

[現在地名]合志町幾久富きくどみ

上荘かみのしよう村の東、竹迫たかば町の西に隣接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「上荘之内二子村」とみえ、戸数二一・家数三四・人数三八、牛馬一〇、田一町八反余・畠九七町四反二畝余、屋敷四町六反七畝余、分米五〇六石八斗余とある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では竹迫組に属し、戸数九・家数一一三、人数一一一(うち庄屋一・百姓五・名子一五・下人一二・作子四・大工一・鍛冶一・鍛冶弟子二)、牛馬四六。その後竹迫手永に属した。「国誌」は「御臼村今町村古閑村乙丸村等ノ小村アリ」と記し、天保期(一八三〇―四四)以降の村柄を示す明治三年(一八七〇)竹迫手永手鑑今町いままち乙丸おとまる古閑丸こがまるを記す。

二子村
ふたごむら

[現在地名]珠洲市若山町二子わかやままちふたご

上黒丸かみくろまる村の北にある。正保郷帳に村名がみえ、高一一五石余、田六町一反余・畑一町五反余、新開高二五石余(免二ツ五歩三厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一四八石、免三ツ八歩、小物成は山役一三〇匁・漆役二匁、なお敷借本米・利足は一六石余であった(三箇国高物成帳)。享保二年(一七一七)の高免百姓持高寄帳(尾間谷文書)では百姓一三人のうち持高一〇―二五石余の者は九人。天保郷帳では大坊だいぼう村の内と考えられる。

二子村
ふたごむら

[現在地名]倉敷市二子

松島まつしま村の北、日差ひさし山南面の山裾沿いに位置する。神功皇后が三韓出兵の帰路、皇后はこの地に滞在、このとき筑紫で生れた皇子が二歳になったので、この里を「二ツ子の里」というようになり、のち「二子村」と称されるようになったという(備中誌)。寛永備中国絵図では高九二一石余、庭瀬藩戸川氏領。寛永五年(一六二八)藩主戸川正安は弟安利に都宇つう郡・窪屋くぼや郡の内三千三〇〇石を分知し、旗本帯江戸川領となり、幕末にいたる(「寛政重修諸家譜」など)

二子村
ふたごむら

[現在地名]師勝町二子

南境をしん川が流れている。東を久地野くじの村、南を比良ひら(現名古屋市)、西を九之坪くのつぼ(現西春町)、北を井瀬木いせぎ高田寺たかだじ村と接する。中世には高田保・高田郷のうちであった。寛文一一年(一六七一)には、家数三五、男一八〇人・女一六六人(寛文覚書)。「徇行記」によれば田は三二町二反八畝余、畑は八町五反三畝余で、概高八三九石余のうち七四九石余が藩士一九人の給知。

二子村
ふたごむら

[現在地名]一宮市萩原はぎわら萩原はぎわら

東は河田方かわだがた村、南は串作くしつくり村に接する。字三昧ざんまいを中心とする付近一帯から弥生式後期の遺物のほか、住居跡が発見され、二子遺跡として知られる。また、村内に「とりべ屋敷」とよぶ地があり、「萩原町史」は高木たかぎ城・東宮重ひがしみやしげ城と一連のものとし、一説に苅安賀かりやすか城攻略のための砦としている。

二子村
ふたごむら

[現在地名]鴨川市二子

中居なかい村の北東に位置し、嶺岡東みねおかひがし牧の南側に接する。江戸時代初期は曾呂そろ村の一部に属していた。正保郷帳に村名がみえ、高一〇七石余、うち田方七五石余・畑方三一石余、旗本石川領。慶安四年(一六五一)幕府領になるが、元禄一〇年(一六九七)に旗本京極領となり、以後幕末まで京極氏が支配した(旧高旧領取調帳など)

二子村
ふたごむら

[現在地名]八開村二子

東は領内りようない川を境にして津島西川端つしまにしかわばた新田(現佐織町)、西は佐屋さや川を隔てて古赤目こあかめ村に接する。「徇行記」によれば、村高五〇五石余は一円蔵入地。田は二七町七反余、畑は二九町三反余。「寛文覚書」に戸数七二、人数三五六とある。「徇行記」に「此村落ハ佐屋川ノ辺リニアリ四区ニ分レリ、小判山・丸島・下丸島・定納ト云(中略)四区共ニ大体村立ヨクシテ竹木茂レリ(中略)丸島ニテハ多ク藍ヲ作レリ、此辺マツチニテヨク土地ニアヘリ」とあり、貴重な染料藍の生産地であったことが知れる。

二子村
ふたごむら

[現在地名]松本市笹賀 二子

神戸ごうど村の北にあり、奈良井ならい川の左岸を境とする。

天正検地の際、五〇三石九斗四升五合と初めて高付けされた。享保一〇年(一七二五)松本藩水野家の改易により翌年から幕府領に編入され明治を迎えた。「信府統記」によると、「御朱印高七百三石九斗四升五合」とあり、享保九年当時の石高は九四四石五斗八升二合七勺である。寛文年間(一六六一―七三)の水田は三九町二段八畝一八歩、畑地は五六町九段一畝二一歩。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報