加古郡(読み)かこぐん

日本歴史地名大系 「加古郡」の解説

加古郡
かこぐん

面積:四四・〇五平方キロ
播磨はりま町・稲美いなみ

県の南中央部に位置し、東は神戸市西区・明石市、南は明石市と瀬戸内海、西は加古川市、北は加古川市・三木市に接する。近世までの当郡は播磨国の南東部に位置し、東は明石郡、西は印南いなみ郡、北は美嚢みなぎ郡・加東かとう郡に接した。賀古郡とも記した。郡の北から西にかけての境は主として加古川であるが、一部南西端においてはその河口より西の高砂市を流れる法華山谷ほつけさんたに川の河口が郡境となっていた。これはかつて加古川の河口に浮んでいた小島が陸続きとなった結果によるものである。三木市に接する北東部の境の辺りは標高六〇―九〇メートルの丘陵が連なるが、その他は郡のほぼ全域にわたって平野が広がっており、その中央を小河川の別府べふ川が流下する以外に河川らしい河川はなく、現在でも溜池の分布が顕著である。

〔古代〕

「日本書紀」応神天皇一三年九月条の注に、数十の大鹿が海に浮び来り、播磨の水門に入った、それより鹿の着いた岸を「鹿子水門」とよぶようになった、という説話が載る。「水児船瀬」の語は「続日本紀」延暦八年(七八九)一二月八日条・同一〇年一一月六日条にみえ、古くから加古川の河口付近に湊が存在したことは明らかである。郡名説話としては「播磨国風土記」に「此の土は、丘と原野と甚広大くして、此の丘を見るに鹿児の如し」ということで賀古郡と名付けたとある。長屋王家木簡に「賀古郡貝鮓御贄六十二烈」とみえる。この木簡は霊亀年間(七一五―七一七)以前のものであろう。なお木簡ではほかに「播磨国賀古郡(赤カ)米五斗」(平城宮跡出土木簡)、「播磨国賀古郡加比鮓三(斗カ)(平城京二条大路跡出土木簡)がある。当郷淡葉あわわ郷にかかわる木簡が二点あり、一は「(表)幡磨国加古郡禾々(わわ)里」「(裏)□戸首名俵」(平城宮跡出土木簡)、一は「播磨国賀古郡淡葉郷□□里伯祢部石村御調御贄 大蛸六斤太」(平城京二条大路跡出土木簡)である。淡葉郷は「播磨国風土記」では鴨波あわわ里とみえ、明石郡に接している。「和名抄」には記載がなく、賀古郷と住吉すみよし郷に替わったと考えられる。「続日本紀」神亀三年(七二六)一〇月一〇日条には、聖武天皇が播磨国印南野に行幸した際に、その行宮の近くの明石・賀古二郡の七〇歳以上の百姓に穀各一斛を賜うとあり、天平神護元年(七六五)五月二〇日条には賀古郡の外従七位下馬養造人上が居地の名を取り、印南野臣を賜うとある。また神護景雲元年(七六七)二月一一日条には、淡路国が日照りのため種稲が乏しくなった農民に播磨国加古・印南などの郡稲四万束を転じて出挙したと記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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