丸山町(読み)まるやままち

日本歴史地名大系 「丸山町」の解説

丸山町
まるやままち

面積:四四・一一平方キロ

郡の中央部に位置する。北西は富山とみやま町、西は三芳みよし村、南西は館山市、南は千倉ちくら町、北東は鴨川市、東は和田わだ町に接し、南東縁は太平洋に臨む。町域は丸山川に沿って南北に長く、同川が形成する河岸段丘沖積平野が展開する。町の中央部を丸山川に沿って国道四一〇号が走り、北部の大井おおいで県道が分岐し、富山町方面および鴨川市・和田町方面と結ぶ。外房沿岸と館山市を結ぶ国道一二八号は町の南部を横切り、千倉町・館山市方面と結ぶJR内房線は町内の海岸沿いを走り、鴨川市の安房鴨川駅でJR外房線に接続する。また国道一二八号から分岐し千倉町・白浜町方面と結ぶ県道(房総フラワーライン)がある。当地には七、八世紀代の横穴群が多く分布し、平野部では条里遺構が確認されている(中世に下るかともされる)

丸山町
まるやままち

[現在地名]長崎市丸山町・本石灰町もとしつくいまち

船大工ふなだいく町の南にある長崎そと町の一ヵ町。もとは長崎村小島こしま郷のうちで、町並はほぼ東西に形成され、隣接する寄合よりあい町とともに傾城町と記される(享和二年長崎絵図)。はじめ太夫たゆう町と称された。「寄合町諸事書上控帳」によれば、博多はかた(のちの古町)で遊女を抱える宿屋があり、これを寛永一六年(一六三九)に移転、丸山町と称したという。正保四年(一六四七)の外町箇所数帳(柏原家文書)では箇所数四四。寛文三年(一六六三)の大火では二〇一間・家数五二を焼失(寛宝日記)、同一二年の間数二〇九間・実箇所数四七・諸役御免箇所三(長崎県史)。「長崎実録大成」では四千五三八坪。宝暦九年(一七五九)町裏道から出火、引田屋の茶屋敷などが類焼(寄合町諸事書上控帳)

丸山町
まるやままち

[現在地名]厳原町田淵たぶち

向山むかいやまから西に突出した丸山の北東麓を巡る一帯。府中ふちゆう商人町二四ヵ町の一つ。万治元年(一六五八)一二月「丸山出口」から出火、町家七八軒などを焼失(郡方毎日記)。延宝四年(一六七六)の屋敷帳(宗家文庫文書)に「円山本町」「丸山下町」とみえ、中村・織田・高田ら諸氏の屋敷がある。一華いつけ庵の通りはかつてゆみ町と称され、御弓衆の比田勝宅などがあったという。文化八年(一八一一)の接鮮旅館図(内閣文庫蔵)では東手に町奉行所とある。

丸山町
まるやまちよう

明治一二年(一八七九)より同三五年まで存続した町。明治四年の「春日紀行」に「円山」とある。同一二年四月入船いりふね町・新地しんち町のうち丸山山麓の一部を割いて丸山町が置かれた。同二四年調の「徴発物件一覧表」では戸数一一〇、男二〇七・女一八四、倉庫七、艀漁小廻船一五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報