府中城下(読み)ふちゆうじようか

日本歴史地名大系 「府中城下」の解説

府中城下
ふちゆうじようか

[現在地名]厳原国分こくぶ今屋敷いまやしき中村なかむら大手橋おおてばし田淵たぶち天道茂てんどうしげ日吉ひよし宮谷みやだに桟原さじきばら久田道くたみち

江戸時代の府中城(桟原城・桟原屋形とも)城下町対馬藩主宗氏により整備されたもので、中世より宗氏が拠点とした中村屋形とその城下町府中を前身とする。「津島紀略」によれば、府の所在地は下県郡与良よら郷の南東で、国府こくふと称されたのが、のち府中(天保八年国郡全図並大名武鑑)となり、府内ふないとも通称されたという。明治二年(一八六九)対馬藩(府中藩)厳原藩を公称するので、当城下も厳原城下ともよばれる。

〔城下の町割〕

府中の町は天正期(一五七三―九二)宗義智の時代から整備されたとされるが、宣祖二九年(一五九六)朝鮮王朝の通信正使の黄慎は利時都麻婁から「府中」に到着、「府中の居民僅かに三、四百戸。その余の八郡、居民倶に百余戸に過ぎず。屋廬残破し、家家窮乏、皆芋糠を以つて飯と為す。小将輩と雖へども、亦た全く米飯を喫し得ず。皆言ふ、兵興の後、大軍出入し、以つて此くの如きを致すと云ふ」と記している。その帰途府中の館舎に入り、正使は西山せいざん寺、副使は慶雲けいうん寺に寓したという(日本往還記)。慶長の役で捕らえられた朝鮮儒者姜の「看羊録」に府中(芳津)は地勢はよいが、倭の城郭とは異なって高い城や深い池といった防御施設がないと記される。承応―明暦年間(一六五二―五八)の皇圀道度図(大阪府立図書館蔵)に府中とみえる。宗義真の時代、万治二年(一六五九)向里むこうざとの町から失火、城下町の一千七八軒を焼尽す大火となった(「隔記」同三年正月二〇日条)。幕府から一万石の救済米を受けたが、万治三年より延宝六年(一六七八)にかけて桟原屋形が築城されたことに伴い、また寛文元年(一六六一)中須賀なかすか町からの出火で七一五軒が焼失したため(郡方毎日記)、寛文の改革に伴う家臣の城下集住を含めて、新たな町割が行われて近世的城下町の建設が推進された。府中湊より桟原新邸までの南北の馬場ばば筋を中心の街路とし、縦横に道路を通して家臣の屋敷割を行った。

寛文二年侍・大小姓・歩行の屋敷は表六間、特権商人の六十人は五間、これ以外の町人は四間、内之者は三間という割付で測量が進められた。馬廻の屋敷は桁間一〇間に入一五間、大小姓屋敷は桁間六間に入一〇間、歩行屋敷は桁間六間に入九間、六十人屋敷は桁間五間に入八間、町人屋敷は桁間四間に入七間となった(長崎県史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報