中角村(読み)なかつのむら

日本歴史地名大系 「中角村」の解説

中角村
なかつのむら

[現在地名]福井市中角町

網戸瀬あどせ村の東に位置する。「朝倉始末記」の永正三年(一五〇六)七月の「加賀越中・能登三ケ国ノ一揆、越前国ヘ乱入之事并越前一揆蜂起之事」の中に「中角ノ渡リ」と地名がみえる。また天正一三年(一五八五)六月二三日付の山田高定知行宛行状(長井家文書)に「領知方 百弐拾壱石壱斗三升 河合庄中角村」とみえる。しかし慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川合かわい庄に含まれていると思われる。

中角村
なかつのむら

[現在地名]勝浦町中角

沼江ぬえ村の南西、勝浦川右岸に位置する。中津野とも記され、勝浦川盆地の中ほどの津に由来する地名ともいわれる。地内に中角六郎左衛門を主将とする中角城があり、天正年間(一五七三―九二)に落城したと伝える(城跡記)。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「中津の」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「中つの村」と記される。

中角村
なかつのむら

[現在地名]竹田市中角

神原こうばる川西岸の台地上にあり、北は辻原つじばる村、西は舞渡まいわたり村。正保郷帳では次倉つぎくら郷に属し、田方三五石余・畑方五九石余で、竹有・日損所と注記される。弘化物成帳では神原組のうち、村位は中、免六ツ二分、田四一石余(四町余)・畑九〇石余(一六町五反余)・屋敷三石余(三反余)で、開田はほとんどなく、開畑五石余(九町六反余)がある。

中角村
なかつのむら

[現在地名]大野町矢田やだ 中角・深野ふかの

佐淵さぶち村の西、南東流してきた平井ひらい川が大野川へ合流する地点北方にある。「豊後国志」に中角と村名がみえる。矢田組に属した(農民一揆)

中角村
なかつのむら

[現在地名]玉城町中角

宮川下流左岸少し内陸にある。東に岩出いわで、北に小社おごそ岡出おかで、西に宮古みやこの各村がある。近世は和歌山藩田丸領。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば、村高一九六石余のうち田方一四二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報