中浦村(読み)なかうらむら

日本歴史地名大系 「中浦村」の解説

中浦村
なかうらむら

[現在地名]西海町中浦北郷なかうらきたごう中浦南郷なかうらみなみごう

大多和おおたわ村の南に位置し、北部を江川内えがわち川、南部を伊佐いさうら川が流れ、呼子よぶこノ瀬戸の南の海域に注ぐ。北郷の石宗いしそう長尾ながお城跡があるほか、古城と館屋敷の跡地があるという。天正遣欧使節の四少年のうち副使の中浦ジュリアンは中浦城主(または庄屋)甚五郎(または甚九郎)の子で、南郷の御園みそのの出身とされる。島原の有馬ありまセミナリオに学び、天正一〇年(一五八二)に長崎を出発、ローマ教皇に謁見、同一八年に帰国した。イエズス会に入り、慶長六年(一六〇一)にマカオのコレジオに派遣され、修学後、同九年長崎で司祭に叙階された。迫害下、筑前博多や口之津くちのつ(現口之津町)で布教を続けた。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の大村ロザリオ組中キリシタン連判書付に「なかうら村」の「田崎助兵衛じ江す」らが署名している。寛永五年(一六二八)キリシタン詮索の申渡しでは中浦村の肝煎中五人が署名(「切支丹法度書」大村見聞集)、弾圧が厳しさを増しているなか、中浦ジュリアンは同九年豊前小倉こくら(現福岡県北九州市小倉北区など)で捕らえられ、同一〇年西坂にしざか(現長崎市)で穴吊り刑に処された(「イエズス会名簿」、シュッテ「日本歴史史料集」I)

中浦村
なかうらむら

鶴見半島の北部、現鶴見町域の総称正保郷帳では松浦まつうら郷に属するなかの村・ふき浦がみえる。その後佐伯藩はこの領域を中浦村(中浦村組)として把握。元禄郷帳に中浦村とみえ、高一三五石余。天保郷帳では高五八二石余。領域については元禄見稲簿では中浦村は無高の日野ひの浦・しび浦・中越なかごし浦・大島おおしま丹賀たんが浦・羽出はいで浦・吹浦で構成とある。

中浦村
ちゆうのうらむら

[現在地名]鹿央町ちゆううら

国見くにみ山北西山麓の谷間に位置し、東・南は大浦おおうら村、西は用木もといぎ村・蜻浦へぼうら(現玉名郡菊水町)と接する。近世山本やまもと郡正院手永に属した。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「中浦 天神 中浦或云蝶浦有蜻浦相対故名」とあり、「国誌」によれば近くの花簇はなむれ山にちなんで蝶浦ちようのうら村とよんでいたが、近世に至って改称したといい、「今古閑村打越村古穴村等ノ小村アリ」とある。

中浦村
なかうらむら

[現在地名]下田村中浦

北は蝶名林ちようなばやし村、南は荒屋あらや村、東は山越え鹿熊かくま村。正保国絵図では高二五〇石余。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では二一二石五斗余・家二二戸。寛文(一六六一―七三)以後鹿峠組に属し、同年間の検地帳写(浦賀武重氏蔵)によれば田方二四町一反余・畑方七町二反余、名請人四五人、うち屋敷持一五人である。名請人のなかには修験の明王みようおう院もみえる。明王院は正和二年(一三一三)三宝院真栄が落合の長者おちあいのちようじや原に開基し、一〇代慈賢のとき中浦に移転、慶長五年(一六〇〇)改称したと伝える。

中浦村
なかうらむら

[現在地名]肥前町大字中浦

松浦半島上場うわば台地の伊万里湾に面する丘陵地にある村で、海岸は中浦の入江となっている。

有浦家文書の康永元年(一三四二)の源(佐志)勤から四男彦隈丸への譲状に「中浦」が記され、「松浦古事記」の波多氏家臣録には「中浦平太郎菅原資知、中浦村百五十石」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報