豊田村(読み)とよだむら

日本歴史地名大系 「豊田村」の解説

豊田村
とよだむら

[現在地名]伊予三島市豊岡町豊田とよおかちようとよだ

嶺北れいほくの西部に位置し、東は大町おおまち村、南は五郎野いらの村など、西は長田おさだ村に接し、北はひうち灘に面す。東部を豊岡川、西部を鎌谷かまたに川が北流する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇摩うま郡の項に「河原尻村 日損所」とあるが、この村が豊田村となった。村名の変更については、「伊予国宇摩郡地誌」に「宝永八年豊田村ト改称ス」とある。しかし伊予国宇摩郡瓜尻村歳宗門人別改帳(河村家文書)の貞享二年(一六八五)には「河原尻村」とあり、元禄三年(一六九〇)の予州宇摩郡瓜尻村之内学蓮寺御藪舗新開地割帳(河村家文書)には「豊田村庄屋久右衛門」などとみえることから、変更は元禄初年のようである。

「和名抄」にみえる宇摩郡津根つね郷に属したとされる。

豊田村
とよだむら

[現在地名]堺市豊田・御池台みいけだい一―四丁・庭代台にわしろだい一―三丁・槙塚台まきづかだい一―四丁・晴美台はるみだい二―三丁・原山台はらやまだい一丁・同五丁・茶山台ちややまだい一―三丁・若松台わかまつだい一―三丁・宮山台みややまだい二丁・同四丁・竹城台たけしろだい三―四丁など

和田わだ村の南にある。村の西部を石津いしづ川が北流し、その流域部に平地は広がるが、東部および西端部は丘陵地。大鳥郡に属する。中村結鎮御頭次第(奥野健一家文書)の正平二五年(一三七〇)に「孫太郎トヨタ」、嘉慶二年(一三八八)に「新入トヨタ孫次郎」などとあり、天文二〇年(一五五一)七月二五日の成願寺鎮守造営棟札銘写(桜井神社文書)に「トヨタ道仙」の名がみえる。

豊田村
とよだむら

[現在地名]日野市豊田一―四丁目・東豊田ひがしとよだ一―四丁目・豊田・多摩平たまだいら一―二丁目・同四丁目・同六―七丁目・富士町ふじまちなど

日野本ひのほん郷の西にあり、村の南をあさ川が流れる。中世は船木田新ふなきたしん庄のうち。貞治二年(一三六三)一二月一九日の船木田庄領家方年貢算用状(東福寺文書)に「豊田村」とみえ、延文六年(一三六一)から貞治二年の間に領家である京都東福寺の現地代官が徴収した年貢は各年六貫文。至徳二年(一三八五)豊田郷の年貢は五貫七〇〇文であった(同年一二月二五日「船木田庄年貢算用状」同文書)

豊田村
とよだむら

[現在地名]打田町豊田

登尾のぼりお村の南に位置し、東は北中きたなか・南中の両村。村域南端を淡島街道が通り、それを境に南は古和田ふるわだ村。「続風土記」は「此地衍沃の地なるを以て豊田といふならむ」と記す。中世は池田いけだ庄に含まれ、元徳四年(一三三二)四月一六日付の六波羅御教書(栗栖家文書)に「紀伊国池田庄内豊田村地頭栗栖六郎入道代資安」とみえる。

慶長検地高目録によれば村高六三八石余、小物成九升七合。

豊田村
とよたむら

[現在地名]中島町豊田

通称「といた」ともいう。日用ひよう川中流の両岸に位置し、東は豊田町とよたまち村。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「豊田保」とみえ、同元年の国衙の検注により、公田数は三町五段五と定められた。鹿島郡における記載順から考えて、日用川の中・下流域、豊川とよかわ地区一帯に比定される。「尊卑分脈」によれば、加賀の有力武士団であった林一族の豊田氏に、鎌倉中期頃能登に移り住んだ豊田弥二郎光忠とその子又二郎光益がみえ、同保に居住した可能性が強い。戦国後期頃は守護畠山氏の直領と一族の常勝寺殿様(氏名不詳)の所領であったらしい(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)

豊田村
とよだむら

[現在地名]御所市大字豊田

宮戸みやど村の西、水越みずこし川右岸に立地。吐田西はんだにし庄は葛上郡三六条八里で(応永二五年「吐田庄注進文」春日神社文書)当村付近に該当。吐田氏の本拠地で、「吐田神社」の社名のみが現存する。拠城の吐田山城は西方関屋せきや城山しろやまにあり、平城は豊田村にその跡が残る。吐田は墾田はりたの義で、「日本書紀」神武即位前紀戊午年九月五日条の「高尾張邑たかをはりむら或本云、葛城邑也」に擬定。

応永二五年(一四一八)の吐田庄注進文に

<資料は省略されています>

とみえる。

豊田村
とよだむら

[現在地名]海士町豊田

海士村の北東に位置し、東部は海に臨む。新宮しんぐう社大般若経第五九三奥書(村上家文書)に永禄九年(一五六六)七月二日、但州の海賊一〇〇余艘が豊田に着き、翌日もり城を攻めたとある。天正一一年(一五八三)頃と推定される一二月八日の島前公事物日記(同文書)に豊田村とあり、鰒一〇連の負担となっている。慶長一八年(一六一三)一〇月に松江藩による検地が行われた(海士町役場蔵文書)

豊田村
とよだむら

[現在地名]北茨城市磯原いそはら町豊田

大北おおきた川とその支流花園はなぞの川に挟まれて位置し、平地が広がる。東は臼庭うすば村。天保郷帳によると古くは小敷田こしきた村と称した。「水府志料」に古鋪田こしきた村と記し、宝暦一〇年(一七六〇)豊田村と改称したという。文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)には「五百廿五石五斗三升 (車ノ内)こしきた村」とみえ、元禄郷帳に「小敷田村」、天保郷帳に「豊田村」とある。寛政元年(一七八九)の人数二三六、馬三七・牛一(松岡郡鑑)、安政三年(一八五六)の家数六五・人数二四一、馬四〇(「公私書記」渡辺家蔵)であった。

豊田村
とよだむら

[現在地名]石下町豊田

小貝こかい川西岸に所在。南は本豊田もととよだ村。古くは豊田本とよだほん郷の内(→本豊田村。「大正三年〜大正五年豊田村事蹟簿」(石下町民俗資料館蔵)によれば寛永七年(一六三〇)伊奈忠治の検地を受け、元禄一一年(一六九八)以降旗本戸田氏知行七三一石余、森川氏三六〇石余、松平氏三二五石余の三給。天保八年(一八三七)の戸数一一〇・人口六五五。安政五年(一八五八)の反別は田七七町三反余に対して畑一〇〇町六反余。

豊田村
とよたむら

[現在地名]富山市豊田本町とよたほんまち一―三丁目・豊田町一―二丁目・高園町たかぞのちよう豊丘町とよおかちよう豊若町とよわかちよう一丁目・同三丁目・豊田など

神通川右岸に近く、北は城川原じようがわら村、西は粟島あわじま村など。標高一〇メートルの微高地にあるため、周辺平地の村落に比して常願寺川氾濫の被害はやや小さい。豊田城(豊田砦)跡は現在の火宮ひのみや社の辺りに比定され、戦国期佐々成政の将竹島五郎左衛門・丹羽権平、あるいは江上重左衛門が居城したといわれる(越中志徴)正保郷帳では高五二二石余、田方二四町七反余・畑方一〇町余、新田高一六五石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高八一二石、免四ツ(三箇国高物成帳)。常願寺川水系広田ひろた用水からの砂の流入や神通川縁にある飛地の岸崩れなどで延宝二年(一六七四)・明和年間(一七六四―七二)などに年季引免が行われ、天保一三年(一八四二)には草高八一二石、免三ツ八歩、散小物成は七木運上役九匁七分四厘(「物成高書上帳」杉木家文書)

豊田村
とよたむら

[現在地名]木造町豊田

岩木川の西側堤防に沿って発達し、対岸は高瀬たかせ(現五所川原市)。南は川除かわよけ村に続き、田圃を隔てて西に蓮川はすかわ村、北に今市いまいち村。

天保一三年(一八四二)蓮花田れんげた村の小山内家由緒書(津軽新田開発者の系譜)によれば、二代目の作右衛門清光が延宝八年(一六八〇)に自費で川崎かわさき村を開き家数二三とある。村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、享保一一年(一七二六)川崎村は豊田村と改名された。

豊田村
とよたむら

面積:三四・五五平方キロ

現飯山市の南に位置する。東山道と北陸道を結ぶ原初の支路が村内を通過、谷筋道(現国道一一七号)が南北に縦断し柏原かしわばら・飯山を結ぶ往還(県道)と交わる。古来交通の要衝で、千曲川沿岸沖積地に谷筋道に沿って南から上今井かみいまい替佐かえさ笠倉かさぐらの集落があり、村の西方奥手おくで山丘陵・米山よねやま山塊と斑尾まだらお(斑山)との間の永江ながえ盆地に永江の集落がある。標高一三八一・八メートルの斑尾山頂上で上水内かみみのち信濃しなの町に接する。

豊田村
とよだむら

[現在地名]最上町向町むかいまち

向町村の南東に位置し、東は若宮わかみや村。若宮村地内を開発して成立した新田村で、吉田本村鑑(最上郡史料叢書)によれば、開発者は越後の真柄武左衛門、別村となったのは宝暦七年(一七五七)のことという。明治三年(一八七〇)の郷村高帳では高五八七石余、ほかに享保年中(一七一六―三六)より開発の新田一三石余があった。新田本村鑑では同じく若宮村より分村した村として上若宮村がみえる。宝暦七年以前の様子を伝えると思われる新庄領内絵図(新庄市教育委員会蔵)最上小国もがみおぐに街道に沿って、東方向町と西方若宮の間に上若宮がみえる。

豊田村
とよだむら

[現在地名]川越町豊田

朝明あさけ川南の平地に位置し、「和名抄」に「豊田郷」として出る。中世は豊田庄。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写に「拾石三斗定興十石孫三郎三斗 といた」とみえる。「五鈴遺響」にも豊田を「土俗登伊陀ト訓ス」とある。同一二年頃伊藤豊左衛門が「豊田ノ郷内」で五五〇余貫を知行していた(織田信雄分限帳)。江戸時代を通じて桑名藩領。

豊田村
とよだむら

[現在地名]天理市豊田町

別所べつしよ村東南部に所在。旧名は北川きたがわ村、中世豊田村とした(山辺郡誌)。「国民郷士記」に豊田頼英の名がみえ、文安元年(一四四四)染田そめだ天神講連歌会に参加している(染田天神社記)

慶長郷帳の村高四六五・五三石。江戸時代初期は幕府領(代官大久保長安)、元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領に編入され、さらに寛文九年(一六六九)久居藩(藤堂高通)領となり、廃藩置県に及んだ(藤影記)

豊田村
とよだむら

[現在地名]龍ケ崎市豊田町

小貝こかい川左岸にあり、東は長沖ながおき村、南は羽黒はぐろ村。慶長年間(一五九六―一六一五)の開拓と伝え、寛永七年(一六三〇)に検地が行われ、土井氏領となり、その後天領・旗本領と支配が変遷したといわれる(北相馬郡志)。寛文年間(一六六一―七三)には新利根川開削に伴う豊田堰の設置があった。元禄郷帳の村高は九五四石余で、慶応二年(一八六六)の地頭姓名村高家数書上帳(吉浜家文書)によると村高九五六石余で、うち九三八石余を領した旗本村上藤十郎知行地は家数五〇・人数三三六。

豊田村
とよだむら

[現在地名]橿原市豊田町

飛鳥川西岸、土橋つちはし村・大垣おおがき村東部に所在。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「大垣ノ東口豊田ツツミノ一丁東ウラ大垣ノ三郎二郎殿」などとみえる。文禄四年(一五九五)の大和国十市郡豊田村御検地帳写(安達家文書)には上田一五町四反五畝一三歩半、中田三町四反七畝一〇歩半、下田一町五畝二二歩半、荒田一反五畝一〇歩、上畑六町四反五畝六歩半、中畑二町七畝八歩、下畑六反四畝一八歩半、荒畑五反五畝二四歩半、高合四一六・六七八石とあり、検地奉行は石田三成。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android