中妻村(読み)なかづまむら

日本歴史地名大系 「中妻村」の解説

中妻村
なかづまむら

[現在地名]下郷町中妻

水門みつかど村の南西、阿賀川右岸の平地と段丘上に立地。中丸甲なかまるこう栗林くりばやし横向よこむきに縄文時代の土器・石鏃・石斧などが出土する遺跡がある。水門村から沢入さわいり村に至る道沿いに中妻源大夫照元が住したという館跡がある。南山御蔵入領松川組に属する。もとは九々布こうぶ村に含まれていたが、同村は寛永四年(一六二七)までに本九々布もとこうぶ村と中妻村の二村に分離した(同年「南山九々布郷中妻村当請定」玉川家文書)

中妻村
なかづまむら

[現在地名]鷲宮町中妻

葛梅くずうめ村の南西に位置する。当地から弘安三年(一二八〇)、応長元年(一三一一)銘など多くの板碑が発見されている。田園簿に村名がみえ、田高三八八石余・畑高二七九石余、ほかに野銭永五〇〇文とあり、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では拝領高六六八石で田方四三町二反余・畑方三五町二反余、ほかに新田高二〇六石余で田方一三町三反余・畑方一〇町八反余となっている。元禄一一年(一六九八)の村明細帳(島村家文書)によれば、検地は川越藩領時代の正保四年(一六四七)に行われ、帳簿は一〇冊で名主の三右衛門が所持していた。

中妻村
なかづまむら

[現在地名]新発田市中妻

早道場はやみちば町の東に位置し、東方には今泉いまいずみ川を隔てて加治かじ(要害山)がある。正保国絵図に村名がみえ、村上藩領。万治元年(一六五八)検地帳(新発田市史資料)によると三日市組で、田一一町三反余・畑三町三反余。貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳では一四八石二斗余。のち幕府領を経て享保九年(一七二四)三日市藩領となり、同年の郷村高辻帳(伊藤喜太郎氏蔵)で一六一石八斗余。紫雲寺しうんじ潟干拓に関係して、同一三年、坂井さかい(今泉川)を当村東方のふもと村地先から西流、姫田ひめだ川に合流させる新河道が開かれたが、一帯は洪水などの被害が多くなったという(菅谷川東郷土史料)

中妻村
なかづまむら

[現在地名]上尾市中妻一―五丁目・中妻・浅間台あさまだい一―四丁目・原新町はらしんまち

大宮台地上沖之上おきのかみ村の北にあり、同村と村域が入会う。南は井戸木いどき村。東は中山道に面し、往還沿いに家はなく林・畑となっていた(宿村大概帳)。近世初期は弁財べんざい村とともにかみ(のちの沖之上村)に含まれ、田園簿では沖之上村から分村した旗本柴田領弁財村の内に含まれるとみられる。元禄七年(一六九四)の上尾宿并上郷上尾村助郷村高(田中家文書)に村名がみえる。

中妻村
なかづまむら

[現在地名]北茨城市華川はなかわ町中妻

花園はなぞの川右岸に位置し、西は下相田しもそうだ村。平地が開け、南の一部が丘陵である。文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)に「三百八拾壱石四斗 車ノ内中妻村」とみえ、同年の岩城領小物成目録(秋田県立図書館蔵)に「(桑)十弐本 此綿四拾八匁 中妻村」とある。元禄(一六八八―一七〇四)以降天領旗本領の五給支配地となった。

中妻村
なかづまむら

[現在地名]水海道市中妻町

鬼怒きぬ川東岸の自然堤防上に所在。南北三・五キロに及ぶ細長い集落で、川に並行して下妻街道が貫通する。北は三坂みさか村。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)には「中妻郷 四拾貫文 御年(ママ)銭 斗物八十俵」とみえる。

寛永七年(一六三〇)関東郡代伊奈忠治による検地で反別一五四町余が帳付され(谷沢家文書)、翌年にはこの地域の開発功労者に「屋敷分谷原三反歩永出し」の除地状が発せられている(小林家文書)。「寛文朱印留」には古河藩主の叔父土井利房の領地として村名がみえ、安政二年(一八五五)の村書上(草間常四郎文書)によれば家数二〇二・人口一千一〇〇、馬四〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報