中原親能(読み)なかはらちかよし

精選版 日本国語大辞典 「中原親能」の意味・読み・例文・類語

なかはら‐ちかよし【中原親能】

鎌倉初期の幕府功臣藤原光能の子。源頼朝側近として、その執政補佐した。京都守護政所公事奉行人などをつとめ、京都の公家との交渉にあたった。また、鎮西に多くの所領所職を持ち、これらは養子の大友能道に譲られて、のちの大友氏発展基礎となった。康治二~承元二年(一一四三‐一二〇八

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デジタル大辞泉 「中原親能」の意味・読み・例文・類語

なかはら‐ちかよし【中原親能】

[1143~1209]鎌倉初期の幕臣源頼朝に仕え、幕府の創業参与政所まんどころ公事奉行・京都守護などを歴任。

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朝日日本歴史人物事典 「中原親能」の解説

中原親能

没年:承元2.12.18(1209.1.25)
生年:康治2(1143)
鎌倉前期の御家人。明法博士広季の子。一説には参議藤原光能の子で,外祖父広季の養子。幼時に相模国(神奈川県)で養育され,流人時代の源頼朝にも接する。その後,京都で下級官人となるが,源平争乱がはじまると鎌倉に下って頼朝に仕えた。元暦1(1184)年に公文所寄人となり,建久2(1191)年には公事奉行人に任ぜられるなど,実務官吏として頼朝に重用されるが,平家追討や奥州合戦にも従軍しており,武士的な面もみせている。また朝廷との交渉役に起用されることも多く,頻繁に上洛している。さらに建仁1(1201)年ごろより京都守護として在京して,朝廷との折衝や京・鎌倉間の連絡に当たった。正治1(1199)年に頼朝の娘三幡が死ぬと,その乳母の夫であった関係から出家して寂忍と号した。大友氏の祖能直は親能の養子とされる。

(三田武繁)

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改訂新版 世界大百科事典 「中原親能」の意味・わかりやすい解説

中原親能 (なかはらちかよし)
生没年:1143-1208(康治2-承元2)

鎌倉前期の武将,官僚。実父藤原光能。外祖父中原広季を養父とし,1188年(文治4)以降中原姓を藤原姓に改めた。相模国に育ち土地の豪族の女を妻とし,源頼朝と親交を結ぶ。84年(元暦1)鎌倉幕府の公文所寄人となり,平氏追討,奥州征討にも従軍した。京都貴族源雅頼の家人でもある親能は公家の情勢に通じ,京都における幕府代表を務めた。99年(正治1)出家。法名寂忍。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中原親能」の意味・わかりやすい解説

中原親能
なかはらちかよし
(1143―1208)

鎌倉幕府草創期の功臣。京下りの官人の1人。藤原光能(みつよし)の子。母が中原広季(ひろすえ)の娘であったため外祖父広季の養子となった。のち藤原姓となる。なお、中原広季の子とする説もある。斎院次官(さいいんすけ)、美濃権守(みのごんのかみ)、式部大夫(しきぶのたゆう)、掃部頭(かもんのかみ)。正五位下。法名寂忍。源平内乱時には平氏追討軍に加わって鎮西(ちんぜい)に渡り、1189年(文治5)の奥州征討に際しても現地に赴いて戦後処理にあたっている。幕府の鎮西奉行(ぶぎょう)、公事(くじ)奉行人などを歴任、鎌倉亀谷(かめがやつ)に居を構えて、おもに朝幕間の折衝に努めたが、承元(じょうげん)2年12月18日京都において没した。

[海老澤衷]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「中原親能」の解説

中原親能
なかはらちかよし

1143~1208.12.18

鎌倉幕府草創期の官僚。中原広季の子で大江広元の兄弟。一説には藤原光能の子ともいう。のちに藤原姓に改める。斎院次官などを勤め,中納言源雅頼の家人。相模国で養育されて流人の源頼朝と知り合い,挙兵を聞いて鎌倉に下り政務に参じたという。頼朝の側近として活躍し,公文所寄人(くもんじょよりうど)や公事奉行人として実務にたずさわる。平氏追討の際,各地を転戦,またたびたび上洛し公家との折衝にあたった。各地に多数の所領をもち,とくに九州の所領は猶子(ゆうし)大友能直に譲られて大友氏発展の基盤となる。妻が頼朝の女三幡の乳母であったことから,三幡死去の際出家して掃部頭(かもんのかみ)入道寂忍と称した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中原親能」の意味・わかりやすい解説

中原親能
なかはらちかよし

[生]康治2(1143).京都
[没]承元2(1208).12.18. 京都
鎌倉時代初期の公卿。大江維光の子。大江広元の兄。のち外祖父明法博士中原広季の養子となった。斎院次官,式部大輔,掃部頭,美濃権守。鎌倉幕府草創期,源頼朝に招かれて鎌倉に下向し,側近として軍事,行政を補佐。京都守護,政所公事奉行など重職を歴任。のち出家して寂忍と号した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中原親能」の解説

中原親能 なかはらの-ちかよし

1143-1209* 平安後期-鎌倉時代の武将。
康治(こうじ)2年生まれ。外祖父中原広季(ひろすえ)の養子。のち藤原姓にあらためた。源頼朝の挙兵にしたがって信任を得,平氏追討,奥州攻めにくわわる。幕府の公文所(くもんじょ)寄人(よりゅうど),政所(まんどころ)公事奉行人(くじぶぎょうにん),京都守護をつとめ,朝廷との交渉にあたった。承元(じょうげん)2年12月18日死去。66歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「中原親能」の解説

中原親能
なかはらちかよし

1143〜1208
鎌倉初期の政治家
大江広元の兄。源頼朝に招かれて鎌倉に下り,草創期の幕政に参画。1184年公文所設置の際,その寄人 (よりゆうど) となり,のち京都守護・鎮西奉行となる。頼朝死後頼家・実朝 (さねとも) にも仕え,六波羅在任中京都で死んだ。

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世界大百科事典(旧版)内の中原親能の言及

【神蔵荘】より

…成立後まもないころの領家は浄土寺大納言法師御房(藤原公房?)で,田数(公田)は28名716町5反であり,本年貢120疋を最勝光院御念仏衣服料として出すことになっていた。在地領主に宗形氏綱とその沽券(こけん)を受けた橘宗頼の名が見えるが,1199年(正治1)当時には関東補任の中原親能が下司,宗頼は下司代となっていた。1209年(承元3)親能の猶子大友能直が地頭下司職に補され,その子詫磨能秀が相続,以来詫磨氏が分割知行した。…

【豊後国】より

…豊後は知行国主藤原頼輔以下,国司で同人の子息でもある頼経,同孫の宗長をはじめ緒方惟栄(これよし)(緒方惟義)など党類の国との理由から,とくに勅許を得て頼朝の知行国である関東御分国ヵ国のうちに加えられ,頼朝自身が同年12月から数年間知行国主となった。翌年国司に御家人の毛呂太郎藤原季光を推挙し,初代守護に腹心の中原親能(ちかよし)を補任した。親能の猶子大友能直(よしなお)が初代守護に補任されたとする説があるが,親能から譲られたらしい。…

※「中原親能」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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