中原久経(読み)なかはらのひさつね

朝日日本歴史人物事典 「中原久経」の解説

中原久経

生年生没年不詳
平安末・鎌倉初期の幕府吏僚。源義朝に仕え,頼朝にもおそらく流人時代から候じていたものと思われる。頼朝の兄朝長の母波多野義通の妹の子という縁で早くから源家に仕えたようである。文筆に携わる者であったが,平家追討のさなか,頼朝の命を受け元暦2(1185)年2月近藤国平と共に「鎌倉殿御使」として上洛,畿内近国の武士荘官らの非法狼藉停止に当たる。さらに7月には院庁下文を帯し鎮西下向,同様に管内の治安維持に当たり,後継天野遠景の鎮西奉行就任まで同地にあった。久経は主に後白河院との折衝役を務めたと推測される。しかしその後については全く不明である。

(奥田環)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中原久経」の解説

中原久経 なかはら-ひさつね

?-? 平安後期-鎌倉時代の武士。
元暦(げんりゃく)2年(1185)源頼朝の使いとして近藤国平とともに京都にいき,平氏追討のおり略奪をくりかえした武士らの鎮圧にあたる。のち院庁下文(くだしぶみ)をたずさえ鎮西(九州)にもつかわされた。

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