与板城跡(読み)よいたじようあと

日本歴史地名大系 「与板城跡」の解説

与板城跡
よいたじようあと

[現在地名]与板町与板 十二谷城山

信濃川左岸の市街地南西に位置し、通称じよう山と称する標高一〇四メートルの山上にある中世の山城跡。東・南には市街地・信濃川・守門すもん岳・あわヶ岳をはじめ東山の連山やその手前に広がる越後平野を一望に収め、西方一帯には三島みしま丘陵が起伏する。山頂の本丸は南北四四メートル・東西三〇メートル、西方に大土塁がある。二ノ丸・三ノ丸から千人溜などのおもな郭は南北一列に配置される。各郭には土塁をめぐらし、深さ四―九メートルの空堀によって区分される。三ノ丸から千人溜に至る間には、深さ一五メートルの大空堀がある。本丸北側の尾根にはいくつかの出丸を置き、南東の尾根にも大小の付属郭が配置される。大手口は本丸北側の谷、搦手口は大空堀の東側、非常口山沢やまざわから千人溜に通じる道に、糧道は山麓法立ほうりゆう寺脇から山頂に至る道に、そのほか水の手口などの諸道が設置される。

与板城跡
よいたじようあと

[現在地名]与板町与板 長丁

なが丁の与板警察署を中心とした位置にある。文政六年(一八二三)以降、戊辰戦争で焼けるまでの与板藩主井伊氏の居所。宝永二年(一七〇五)井伊直矩は遠州掛川かけがわ(現静岡県掛川市)から与板への移封を命じられ、翌三年二万石で入封。入封当時は旧藩主牧野氏の陣屋を居所としたが、六代直朗の代に城主格となり、文政三年に公儀御届新築城郭図(恩行寺蔵)を提出。三年がかりで建築され、七代直暉の同六年に完成。同図によると、本丸にあたる藩主の居所は、井伊いい神社下で、二ノ丸にあたる所は居所の北側に延び、現長丁からしも丁にかけて侍屋敷・侍長屋がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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