不破内親王(読み)ふわないしんのう

改訂新版 世界大百科事典 「不破内親王」の意味・わかりやすい解説

不破内親王 (ふわないしんのう)

聖武天皇皇女生没年不詳。母は夫人県犬養広刀自井上内親王安積親王の同母妹。塩焼王氷上塩焼)の妻となり,氷上志計志麻呂・川継らを産むが,764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱で夫は処刑される。淳仁朝に親王名を削られていたが,769年(神護景雲3)重ねて不敬をなしたとの理由で,厨真人厨女と名づけられて京外へ追放された。これは異母姉称徳天皇頭髪をぬすみ,佐保川のほとりに落ちていたどくろに入れて,県犬養姉女に天皇呪詛させ,息子の志計志麻呂を皇位につけようとしたとする罪によるという。しかし称徳天皇の没後,冤罪として許され,皇籍を復され,二品にまで叙された。ところが,782年(延暦1)もう一人の息子の川継の謀反に座し,川継の姉妹とともに淡路国へ流され,795年に和泉国に移された。皇位継承をめぐる政争の中で一生をおくったと考えられ,その後の消息は不明。
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朝日日本歴史人物事典 「不破内親王」の解説

不破内親王

生年:生没年不詳
8世紀の皇女。聖武天皇と夫人県犬養宿禰広刀自の娘。井上内親王,安積親王の妹。天平2(730)年ごろの生まれか。塩焼王の妃となり志計志麻呂,川継(同一人物か),陽胡を生む。結婚の年は不明だが,塩焼王が伊豆の流刑地から帰京したのちの天平末年(746~48)ごろと考えると,関連する人々の年齢に無理がない。いずれにせよ塩焼王とはかなりの年齢差があり,この結婚は不破内親王の意思とは別の力で決められたものであろう。天平宝字7(763)年に無品から四品になったのは,夫塩焼王が藤原仲麻呂と手を結んだことによるものか。翌8年,夫は仲麻呂の乱に座して斬られたが,不破は聖武皇女であったため内親王の号を削られるにとどまり,皇子も母故に連座を免れた。しかし5年後の称徳天皇厭魅事件では厨真人厨女と名を変えられ,封40戸田10町を与えられて京外追放となり,息子は土佐国へ流された。のち誣告と判明,内親王に復籍した。その後二品まで上ったが,延暦1(782)年息子川継のクーデタ未遂に連座し,川継の姉妹(氷上真人陽胡か)と淡路国に流された。同14年和泉国に移されたが,その地で没したものか,同24年に川継の罪が許されたときには名がみえない。

(児島恭子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「不破内親王」の意味・わかりやすい解説

不破内親王
ふわないしんのう

生没年不詳。奈良時代の女性。聖武(しょうむ)天皇皇女。母は県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)。同母兄弟に安積(あさか)親王、井上(いのえ)内親王がいる。新田部(にいたべ)親王王子で道祖(ふなど)王の兄塩焼(しおやき)王と結婚し、氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)、同川継(かわつぐ)を生んだ。769年(神護景雲3)、志計志麻呂を天皇にするため称徳(しょうとく)天皇を呪詛(じゅそ)したとして都から追放されたが、のち許されて二品(にほん)を授けられた。しかし782年(延暦1)にふたたび川継の謀反事件によって淡路国(兵庫県淡路島)に流され、のち和泉(いずみ)国(大阪府)に移された。

[福井俊彦]

『林陸朗著『奈良朝後期宮廷の暗雲』(『上代政治社会の研究』所収・1969・吉川弘文館)』『中川収著『奈良朝政争史』(1977・教育社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「不破内親王」の意味・わかりやすい解説

不破内親王
ふわないしんのう

聖武天皇の皇女。母は県犬養広刀自。天武天皇の皇子新田部親王の子塩焼王 (→氷上塩焼 ) の室となり,2子を産んだ。天平宝字8 (764) 年恵美押勝の反乱 (→藤原仲麻呂の乱 ) に際し,押勝は塩焼王を立てて帝としたため王は誅せられ,不破内親王も座して属籍を削られた。延暦1 (782) 年には,子氷上川継 (ひかみのかわつぐ) の謀反が発覚して伊豆に流され,母内親王も淡路に配流された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「不破内親王」の解説

不破内親王 ふわないしんのう

?-? 奈良時代,聖武(しょうむ)天皇の皇女。
母は県犬養広刀自(あがたのいぬかいの-ひろとじ)。塩焼王の妃。神護景雲(じんごけいうん)3年(769)子の氷上志計志麻呂(ひかみの-しけしまろ)を皇位につけるため称徳天皇を呪詛(じゅそ)し,京外に追放される。のち無実としてゆるされたが,天応2年子の氷上川継(かわつぐ)の謀反に連座して淡路(あわじ)島に流され,延暦(えんりゃく)14年和泉(いずみ)(大阪府)にうつされた。

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世界大百科事典(旧版)内の不破内親王の言及

【氷上志計志麻呂】より

…生没年不詳。氷上塩焼(しおやき)の子で,母は聖武天皇の娘不破内親王。764年(天平宝字8)父塩焼は恵美押勝(藤原仲麻呂)とともに謀反をおこして誅殺されたが,志計志麻呂は母不破内親王によって連座しなかった。…

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