下野尻村(読み)しものじりむら

日本歴史地名大系 「下野尻村」の解説

下野尻村
しものじりむら

[現在地名]西会津町群岡むらおか

上野尻村の北、阿賀川左岸に位置し、河沼郡野沢組に属した。越後街道が通り、本村の北に端村大下野尻おおしものじりがある。上野尻村と越後街道の合宿をなし、若松城下への上り荷は月の下一五日、宝川ほうがわ宿から受け、野沢宿へと継送りした。地内には高札場も設けられていた(「新編会津風土記」など)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに下野尻とみえ、高五〇一石余。寛文五年(一六六五)の野沢組土地帳(西会津町史編さん室蔵)では高六〇九石余、端村大下野尻・諏方すわを合せて家数七〇、男二一八・女二〇三、馬七二。

下野尻村
しものじりむら

[現在地名]安中市安中四―五丁目

古代碓氷うすい野後のじり(和名抄)の地。永禄二年(一五五九)安中越前守忠政が安中城を築いた際、野後(尻)郷を三分し、東側の碓氷川九十九つくも川に挟まれた地域を下野尻村、中間渓谷を平らにして谷津やつ村に、西側を上野尻村にしたという(「安中志」ほか)。碓氷川を隔てて南東は中宿なかじゆく村、北は九十九川を隔てて下秋間しもあきま村。慶長一九年(一六一四)井伊直勝が安中に入封、上・下の野尻村、谷津村の中山道沿いに町立てをし(「安中志」「安中記」ほか)、下野尻村分のうち一町一反余は安中宿伝馬てんま町の南側町並に割かれた(嘉永五年「宿明細帳」安中市教育委員会蔵)

下野尻村
しものじりむら

[現在地名]香北町下野尻

上野尻村の西に位置し、西は太郎丸たろまる村。物部ものべ川対岸の五百蔵いおろい村との間には江戸時代以来渡船があり、渡船場への下り口付近に若干の店屋があった。南部の山地からの谷水だけでは灌漑用水が不足し、段丘上の耕地は近世以前には部分的に水田化されていたにすぎない。

天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳では、野尻村との境界付近に水田之村、その西隣に大野之村があるが、水田之村の過半は水田加兵衛の給地である。水田氏は開発名主であって、土居屋敷や「土ゐノ前一坪」一町七反余(うち一町四反余は中田)を所有。

下野尻村
しものじりむら

[現在地名]藤原町下野尻

員弁川の西岸、石川いしかわ村の北に位置する。東野尻ひがしのじり村とも称した(五鈴遺響)元禄郷帳および天保郷帳には「西野尻村枝郷」との注記がある。江戸時代を通じて桑名藩領。村内には春日の神官鬼嶋図書の旧跡である「図書起地」が存する。鬼嶋氏は伊賀国名張郡菜摘(夏見)郷の出で、正保年中(一六四四―四八)修理大夫尚貞という人物が桑名藩主松平定綱より北勢四郡の総社司に命ぜられた。しかしその子図書実声は奢侈の咎により逼塞し、以後代々この下野尻村に四反五畝二七歩を所持していたという(員弁雑志)。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳には「四反五畝二十七歩 未改 鬼島図書起」とあり、「図書起地」が除地となっていたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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