下連雀村(読み)しもれんじやくむら

日本歴史地名大系 「下連雀村」の解説

下連雀村
しもれんじやくむら

[現在地名]三鷹市下連雀一―四丁目・同六―九丁目・上連雀かみれんじやく一丁目

牟礼むれ村の西、ほぼ平坦な武蔵野台地に立地。北は吉祥寺きちじようじ(現武蔵野市)。江戸時代中期まで連雀新田と称した。寛保二年(一七四二)覚書(松井家文書)によると、連雀新田は明暦三年(一六五七)の江戸大火によって焼け出された連雀町(現千代田区)寺社・町人らが、火除地として収公された地の替地として武蔵野の御札茅場で千町せんちよう(「武蔵演路」には千里原とある)と称されていた地を与えられ、万治元年(一六五八)入植。このとき宮地に一町余、寺地に四町余、名主に七町余、町人二四人にそれぞれ四―五町余が分給された。しかし商人であった彼らは新田開発の仕方がわからず難航、飢渇した。そこで一軒に金五両の拝借を願出て、本格的に開発に着手。拝借金は万治二年から寛文三年(一六六三)の五年間で返還した。寛文四年幕府検地が行われ、翌年より年貢上納した。同年の検地帳(松井家文書)によると、名主を含め二五人の屋敷地はすべて五畝一〇歩(幅八間・奥行二〇間)耕地は上畑・中畑・下畑合せて四町七反余、名主治兵衛だけは七町六反余で、ほかに寺地・宮地を含め合計畑一二八町八反余・屋敷地一町三反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報