下沢村(読み)しもざわむら

日本歴史地名大系 「下沢村」の解説

下沢村
しもざわむら

[現在地名]鹿沼市下沢

大芦おおあし川流域に位置。東は深岩ふかいわ村・笹原田ささはらだ村、南は下加薗しもかぞの村。慶安郷帳では田二一九石余・畑一九六石余。寛永一二年(一六三五)から阿部重次領、慶安元年(一六四八)武蔵岩槻藩領。元禄郷帳では幕府領と旗本有馬・土屋の三給。元文元年(一七三六)には旗本小笠原知行が加わり四給。同三年幕府領分七六石余が旗本奥村領となる。寛延元年(一七四八)小笠原領分が幕府領となり、宝暦一〇年(一七六〇)には幕府領分が下総佐倉藩領となる。明和八年(一七七一)には土屋領分が幕府領となるが、天明二年(一七八二)再び土屋領となった。同七年佐倉藩主堀田正順の大坂城代就任に伴い佐倉藩領、土屋領分が幕府領となった。

下沢村
しもさわむら

[現在地名]市川町沢

美佐みさ村の北、市川の右岸に位置する。村の東端越知おち川が市川に合流する。神西じんさい郡に属し、北は同郡新野にいの(現大河内町)、東は市川を隔てて神東じんとう屋形やかた村と同郡貝野かいの(現神崎町)。慶長二年(一五九七)三月一一日の上月源介景村宛の水利年貢状(新野区有文書)に「さわ村」二斗とみえ、新野村小柴こしばから用水を得ていた。慶長国絵図に下沢村とみえる。

沢村
しもあしざわむら

[現在地名]敷島町下芦沢

上福沢かみふくざわ村の北、あら川の支流亀沢かめざわ川流域にある。中世には上・下の芦沢を合せて芦沢・足沢と称した。「一蓮寺過去帳」によると、永享一一年(一四三九)頃の一二月四日供養の願阿弥陀仏に芦沢の注記がある。上芦沢の北方平見城ひらみじよう山は要害の地で、天正一〇年(一五八二)八月一〇日、徳川家康は相原内匠助・深沢一左衛門・藤巻因幡・御岳十人衆に御岳足沢小屋中仕置や長子の番所などの警固を命じた(「徳川家康印判状写」社記)

下沢村
しもさわむら

[現在地名]和良村さわ

鬼谷おんだに川左岸に位置し、西は上沢村。東の下洞しもぼら村とともに和良筋諸村の経済的中心で、郡上八幡ぐじようはちまん(現八幡町)と飛騨金山かなやま(現益田郡金山町)を結ぶ街道沿いの宿場として発達した。正保郷帳では沢村とあり、上沢村を含んでいる。元禄郷帳では下沢村は旗本遠藤(分知時は山田)領で、高一五一石余。分村時期は不明だが、郡上藩から山田氏が分知した正保三年(一六四六)と思われる。宝永七年(一七一〇)の巡見使宿泊(「荘厳講記録」長滝寺蔵)や、天保九年(一八三八)の御巡見様御触廻状写(吉田文書)などによれば、下洞村・安郷野あごの新田のほか当村が宿泊地とされていた。

下沢村
しもざわむら

[現在地名]立山町下沢

石坂いしざか村の南に位置。慶長年間(一五九六―一六一五)大和国宇多うだ郡生れの茂左衛門が開墾したなどと伝える(五百石地方郷土史要)。寛永一七年(一六四〇)あきしま用水開削後開発が進んだものであろう。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえ、寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高一六五石、免三ツ八歩(三箇国高物成帳)

沢村
しもあしざわむら

[現在地名]朝日町下芦沢

送橋おくりはし川の中流にあり、北東下流は送橋村。正保郷帳に下足沢村とあり、田方一七八石余・畑方一〇一石余。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。宝暦八年(一七五八)の左沢御領知村高組訳書抜帳(松山町教育委員会蔵)では東五百川ひがしいもがわ下郷しもごう組に属し、高二八八石余、家数四〇・人数一六一。

下沢村
しもざわむら

[現在地名]糸魚川市上野うえの

上野村の北。寛文七年(一六六七)の高帳によると、本田高三六石五斗余、古新田・新田高二石九斗余。本百姓二人・高持名子四人である(糸魚川市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android