下一色村(読み)しもいつしきむら

日本歴史地名大系 「下一色村」の解説

下一色村
しもいつしきむら

[現在地名]湖東町下一色

勝堂しようどう村の東に位置し、南は中一色村。中世には押立おしたて保の一部と推定され、一色郷とよばれた。永正九年(一五一二)三月一一日に押立神社神領の押立山の下草刈の入会地について定められ、一色郷は家数二六〇で、この神納小直米三石一斗(押立神社文書)。一色郷は下一色村・中一色村を含むと推定される。弘誓ぐぜい寺の西に佐々木氏の家臣津田藤左衛門の屋敷跡と伝える一色館跡がある。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ高三八六石余。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男九二・女九八、寺社方男四・女六。

下一色村
しもいつしきむら

[現在地名]鳳来町一色いつしき

寒狭かんさ川とともえ川の合流点の北側にある。大血沢おおちざわの谷から恩原おんばら村に通ずる山道は長篠の戦で、武田軍主力の退却路で、七人しちにん塚といわれる落人の墓や、炊事をしたと伝えられる釜抜かまぬけという地名がある。この道筋の現字古多ふつたにはかつて民家が一三戸あったと伝える。

下一色村
しもいしきむら

[現在地名]南濃町さかい

下境しもさかい村の南にあり、伊勢東街道が通る。慶長郷帳海西かいさい郡内に村名がみえ、高二一六石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では大垣藩領で、田九五石余・畑一二四石余、山年貢一石余、ほかに新開として田九八一石余・畑七〇石余が記される。この新開地は下境村分と考えられる。

下一色村
しもいしきむら

[現在地名]立田村下一色

東は佐屋さや川を隔てて津島村(現津島市)、西は新右衛門しんうえもん新田村に接する佐屋川沿いの村。「徇行記」によれば、概高三九二石余は一円蔵入地。田は一六町三反二畝余、畑は七町三反余。「寛文覚書」に戸数三三、人数一二八とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報