上手村(読み)うえでむら

日本歴史地名大系 「上手村」の解説

上手村
うえでむら

[現在地名]明野村上手

かやヶ岳の西麓、標高八〇〇メートル付近から小田川こたがわ(現韮崎市)しお川右岸、標高四五〇メートル付近にあり、永井ながい小袖こそで大久保おおくぼ谷井たにい三ッ井みつい羽場はば藤内とうない湯屋ゆや相田そうだ・下大久保金山原かなやまばらの一一集落がある(甲斐国志)。慶長古高帳では高七一〇石余、旗本玉虫氏知行、ほかに三島みしま大明神(三島神社)領二石二斗五合、諏訪大明神(宇波刀神社)領一石八斗一升八合、常林じようりん(浄林寺)領一石八斗九升。延宝七年(一六七九)検地帳(県立図書館蔵)二五冊のうち現存する三冊によれば上田二町九反余・中田四町五反余・下田一町五反余・下々田八反余・山田二反余、上畑八反余・中畑一町二反余・下畑四町五反余・下々畑四町九反余・山田一反余。延享三年(一七四六)の村明細帳(福田武雄家文書)によれば家数三七二・人数一千五四八、馬一六四・牛四。

上手村
かみでむら

[現在地名]答院町上手

大村おおむら郷下手村の東にあり、北流する久富木くぶき川と、西流して同川に注ぐ秋上あきあげ川流域にある。東から南東矢止やどめ岳連峰を境にして大隅国始羅しら蒲生かもううるし村・西浦にしうら(現蒲生町)、南は藺牟田いむた郷藺牟田村、北は黒木くろき黒木村。古くは下手村とともに大村一村であったが、一七世紀半ばから一八世紀初頭の頃に分村して上手村となった(三州御治世要覧)。だが天保郷帳など幕府差出の郷帳類では一貫して大村一村として扱われた。元禄国絵図には大村之内上手村とみえる。延享(一七四四―四八)頃の高一千六二五石余(三州御治世要覧)

上手村
のぼてむら

[現在地名]日田市西有田にしありた 上手町

花月かげつ川と有田川の合流域西方、城内じようない村の北に位置する。地内くわもとは鍬ノ本とも書き、平安前期大蔵永弘が八幡神の神託で鉾を掘出して奉納したことに由来するという(豊西記)。慶長六年(一六〇一)の森藩領知目録(佐伯藩政史料)に野保手村とみえ、高三八二石余。慶長豊後国絵図では上手村とし高三八〇石余。正保郷帳では田高三五一石余・畑高三〇石余で、夜開やけ郷に属し、水損所と注記される。元禄見稲簿では高三二三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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