明野村(読み)あけのむら

日本歴史地名大系 「明野村」の解説

明野村
あけのむら

面積:二八・一〇平方キロ

郡東部の南端に位置し、西・北・東は須玉すたま町、南は韮崎市に接する。東にかねヶ岳・かやヶ岳がそびえ、その南西麓標高四〇〇―一〇〇〇メートル付近の間に広がる。西の須玉町と韮崎市中田なかた町との境界付近をしお川が南に流れ、金ヶ岳・茅ヶ岳を源とする湯沢ゆざわ川・栃沢とちざわ川・南沢みなみさわ川・正楽寺沢しようらくじさわ川が西流してこれに合流する。西部の標高五〇〇―六〇〇メートル付近を主要地方道韮崎―増富ますとみ線が南北に通り、ほぼ村の中央標高六五〇―七五〇メートル付近を南北に茅ヶ岳広域農道が走る。中央自動車道は塩川の河岸段丘上を南東から北西に走る。村名は昭和三〇年(一九五五)上手うえで村・朝神あさがみ村・小笠原おがさわら村三ヵ村の合併に際し、茅ヶ岳山麓の広大な原野や、明るく発展する村の姿を象徴する明野村とした。

水量豊かな河川に恵まれない茅ヶ岳山麓では、縄文時代から平安時代までの遺跡のほとんどが湧水池の近くに立地している。縄文時代草創期になると塩川左岸中位段丘面端に位置する神取かんどり遺跡で、微隆起線文土器・爪形文土器・表裏縄文土器とそれらに伴う尖頭器・有舌尖頭器・局部磨製石斧などが出土している。早期では神取遺跡・屋敷添やしきぞえ遺跡などで押型文土器・沈線文系土器が出土し早期全般を通じて人々の生活の痕跡がうかがえる。しかし定着的生活が最初に認められるようになるのは早期末からで、神取遺跡で条痕文系土器を伴う住居跡一軒が発見されている。前期ではまれに土器片が出土する程度で、前期後半に濃厚な遺跡分布を示す八ヶ岳山麓とは対照的である。このような傾向は中期中葉まで続き、屋敷添遺跡で中期初頭の墓域が調査され、机腰つくえごし遺跡で遺物が採集されたほかは目立った遺跡がない。中期後半からは遺跡数が急増し、とくに中期末葉曾利式土器を伴う遺跡が目立つ。諏訪原すわはら遺跡は藤内式土器から曾利式土器を伴う集落遺跡で、住居跡数は数十軒を優に超える。

明野村
あけのむら

[現在地名]篠山市明野

大山下おおやましも村の南部に位置し、宮田みやだ川が流れる。中世は大山庄のうち西田井にしたいの南端にあたる。もと上野あげの村と称し、承応三年(一六五四)頃に大山下村から分立したという。「丹波志」に大山庄大山下のうち「明野」とみえ、高六三石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では大山組のうち明野村とあり、家数二〇・人数一一四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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