上大越村(読み)かみおおごえむら

日本歴史地名大系 「上大越村」の解説

上大越村
かみおおごえむら

[現在地名]大越町上大越

現大越町の中央部に位置し、北流する牧野まぎの川の流域に沿って開けた集落。中世には下大越村牧野村とともに大越(太越)といわれ、田村庄に含まれていた。応永一一年(一四〇四)頃と推定される国人一揆傘連判断簡(秋田藩家蔵白川文書)みえる「大越 宮内少輔季広」「白石 伊豆守季春」は田村氏の一族とみられている。白石しろいしは地内に比定される。田村氏麾下の大越氏は字まち鳴神なるがみ城に拠っていた。天文一三年(一五四四)大越顕光は常葉光貞とともに田村隆顕父子と石川稙光父子との間の和解に努めることを石川氏に誓約している(同年七月三日「常葉光貞・大越顕光連署起請文」角田石川文書)。田村清顕の没後、天正一六年(一五八八)大越顕光は小野おの(現小野町)の田村梅雪斎とともに相馬・岩城両氏と結び、反伊達氏の行動をとった。

上大越村
かみおおごえむら

[現在地名]加須市大越

北は利根川を境として上野国邑楽おうら大久保おおくぼ(現群馬県板倉町)と対し、東は下大越村・中大越村。古くは中・下の大越村と一村であった。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳には「五十貫文 大越彦四郎」「二十一貫文 大越彦八郎」とみえ、在郷武士と考えられる。なお萱氏系図(鷲宮神社文書)に「武蔵国大越郷住人大越次郎貞正」がみえる。貞正の娘を母とするのが萱氏の先祖で、建久元年(一一九〇)鷲宮わしのみや神社(現鷲宮町)本社を再建したと伝える。

羽生はにゆう領に所属(風土記稿)。寛永八年(一六三一)八月の騎西郡羽生領大越村御検地水帳写(関根家文書)には田畑二六五町余のうち五七町余が当発とあり、大規模な新田開発が進められていた。

上大越村
かみおおごえむら

[現在地名]いわき市平上大越たいらかみおおごえ

夏井なつい川下流右岸にあり、北対岸は下神谷しもかべや村、西は荒田目あつため村・菅波すぎなみ村、東は下大越村。天正一七年(一五八九)八月四日の岩城常隆寄進状(飯野八幡宮文書)によれば「太越之地平松在家」が飯野いいの八幡宮に寄進されている。磐前いわさき郡に属した。近世領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に大越村とあり、高五六一石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)でも大越村で、高六〇六石余。正保郷帳では上大越村とあり、田方一九五石余・畑方四一〇石余とあるが、下大越村がみえないので、その高を含んでいる。元禄郷帳では上大越村は高二六一石余、枝郷の中丸なかまる村は高五三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android