上加茂村(読み)かみがもむら

日本歴史地名大系 「上加茂村」の解説

上加茂村
かみがもむら

[現在地名]福山市加茂かも町上加茂

八軒屋はちけんや村の北に位置し、東側の丘陵沿いに集落があり、西の下加茂村に続いて水田地帯が広がり、豊穣な農耕地が展開。東側の丘陵やその尾根には多数の古墳があり、なかでも石鎚山いしづちやま古墳群の中心の石鎚山一号墳からは、舶載の吾作銘二神二獣鏡(後漢末―三国時代)、同二号墳から君宜高官銘内行花文鏡(後漢)が発見されている。一号墳は墳丘を取巻いて列石が二重にめぐらされており、円形墳の墳頂には二基の竪穴式石室が設けられ、玉類、定角式鉄鏃が副葬されていた。

上加茂村
かみがもむら

[現在地名]洲本市上加茂

下加茂村の西、洲本川北岸にある。三原みはら郡に属し、北は津名つな三木田みきた村・安坂やすさか村。村名は上賀茂とも記される。正保国絵図に村名がみえ、高三〇四石余とある。天保郷帳では高三〇五石余。元禄五年(一六九二)には物部組に属していたが(「庄屋組及庄屋名簿」岩村家文書)、近世後期には金屋組に属した(堅磐草)。反別戸数取調書では反別二五町九反余、高三五二石余ですべて蔵入地。ほかに八幡宮領一斗余があった。家数四八・人数二一三。溜池さと池など七ヵ所がある(味地草)

西方下内膳しもないぜん村との境に北上して岩屋いわや街道に合流する福良ふくら街道が通っていた。下内膳村には町送り場が置かれており、当村はそこへ人夫を派遣する町送り村となっていた(元文三年「下物部村ヨリ八幡迄町送相勤申村ニ引棒指引仕帳」佐野家文書)

上加茂村
かみがもむら

[現在地名]南伊豆町上賀茂かみがも

一条いちじよう村の南、一条川が青野あおの川に合流する場所に位置する。「和名抄」所載の賀茂郡賀茂郷の遺称地。上賀茂村とも記す。古くは加茂村に含まれ、元禄(一六八八―一七〇四)頃に分村した(増訂豆州志稿)。応永三年(一三九六)七月二三日上杉憲定が安堵された父憲方の遺領のうちに「賀茂」が含まれているので(「管領斯波義将奉書」上杉家文書)、当地は山内上杉氏の所領であった。慶長三年(一五九八)の加茂郷検地目録(菊池家文書)によると百姓五三名が記され、同年の加茂郷年貢目録写(同文書)によると田四八町五反余・分米六七七石余、畑屋敷三七町六反余・分米二四五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報