三島代官所跡(読み)みしまだいかんしよあと

日本歴史地名大系 「三島代官所跡」の解説

三島代官所跡
みしまだいかんしよあと

[現在地名]三島市北田町

江戸時代前半に伊豆国などの幕府領支配の中心となった役所。跡地は現在の三島市役所の敷地とみられる。なお三島陣屋を使用して伊豆・駿河を支配した代官を近現代の表現上「三島代官」といい、その役所を三島代官所とする。初代は井出正次とされる。ついで慶長一四年(一六〇九)から元和六年(一六二〇)までは佐野正重・井出正信の相代官時代である。さらに同七年から揖斐政景、寛永二年(一六二五)から小林時喬、同一二年から同一九年まで小林重定と続く。揖斐政景は元和七年小田原町奉行に任ぜられており、兼帯であった。当時の揖斐の支配地は現在の修善寺しゆぜんじ町以北で後年からみると限定された地域といえる。揖斐は寛永一三年には駿府町奉行に転じた。小林時喬の父重勝は下野国の代官といわれ、時喬は伊奈忠次の下代として常陸国の慶長七年検地に参加、将軍徳川秀忠の信任により代官となった。時喬の代には内浦うちうら(現沼津市)地域に支配が拡大し、割付状も寛永三年田方たがた長崎ながさき(現韮山町)のもの(土屋家文書)を初見として残存状況はよい。

寛永七年当時でも伊豆代官には小林時喬二万九千七八〇石、竹村弥太郎一万四千三四〇石のほか川井助左衛門・市川喜三郎・今宮惣左衛門・下田与四右衛門らがおり、さらに四千八〇〇石の韮山代官江川氏がいて、概算支配高は計七万四千八二〇石であった(韮山町史)。同九年の深沢ふかさわ(現大仁町広瀬神社)の修復勧下(広瀬神社文書)にも今宮・下田・江川・小林・市川・竹村の名がみえる。幕初は大久保長安の金山支配が最優先で、井出正次もその下にあった。竹村・川井・市川・今宮・下田らは三島代官の下代としての存在である。小林時喬・重定の父子相承が重定の私曲・罷免により破れると、伊奈忠次の四男忠公が就任する。この寛永一九年には下代が払拭され、代官は伊奈・江川のみとなる。すなわちこの時点で、江川氏支配地以外の伊豆のほとんどが三島代官の一括支配となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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