マグナカルタ

精選版 日本国語大辞典 「マグナカルタ」の意味・読み・例文・類語

マグナ‐カルタ

(Magna Carta) 一二一五年、イングランド王ジョンが貴族たちに強制されて承認した特許状イギリス憲法を構成する重要文書の一つ。「大憲章」と訳される。前文と六三条から成り、国王の徴税制限、人身の自由、不当な裁判による逮捕・財産没収・追放の禁止などを骨子とする。本質的には王権の制限、貴族の特権の確認で、一般人民の自由を規定したものではない。

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デジタル大辞泉 「マグナカルタ」の意味・読み・例文・類語

マグナ‐カルタ(Magna Carta)

1215年、イングランド王ジョンが封建貴族たちに強制されて承認、調印した文書。前文と63条からなり、国王の徴税権の制限、法による支配などを明文化し、王権を制限、封建貴族の特権を再確認したもの。権利請願権利章典とともに英国立憲制の発展に重要な役割を果たした。大憲章。

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改訂新版 世界大百科事典 「マグナカルタ」の意味・わかりやすい解説

マグナ・カルタ
Magna Carta[ラテン]
Great Charter

イギリスで1215年6月15日付で発布された63ヵ条の法で,その後たびたび再発行および確認されている。イギリス憲法一部とされ,しばしば〈大憲章〉と訳される。マグナ・カルタを論ずる際には,それが1215年の発布当時に有していた意義と,それ以後今日まで立憲政治の上で果たしてきた意義とを明確に区別する要がある。

 マグナ・カルタは直接的には当時のイギリス国王ジョンの失政をきっかけにして発布された。すなわち,ジョンは父王,兄王から継承したフランス内の領土をフランス王に奪われ,一方では戦費調達のため財政改革をし,苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)を行った。かくして敗戦と圧政への人々の不満が高まり,王の殺害計画まで発覚している。このような背景の下でも,王は領土回復の戦いを再び試み,1214年ブービーヌの戦で最後的な敗北を喫した。これをきっかけに,とくに貴族の不満は最高潮に達し,王はあらゆる方法で不満分子の抱き込み策を図った。15年5月5日貴族の一部が〈ジョンを主君と認めずみずからをジョンの臣下と認めず〉と宣言して公然と反抗し,後にロンドン市がこれに同調したときには,ほとんどの臣民が反ジョン側についてしまった。しかし,反王側の臣民に統一がとれ,初めから後のマグナ・カルタのようなものが意図されていたと考えてはならない。5月5日の段階ではなんらの文書もなかった。彼らの主たる目的は,人によってはジョンの廃位であり,人によってはジョンが彼らの不信感をなくするにたる行為をとることであった。6月10日までに両者の協約の主たる点が決まり,それに多くの雑多な項目が盛り込まれ,6月15日付で発布されたのが,マグナ・カルタである。

 したがって,マグナ・カルタの63ヵ条にはなんらの統一もなく,また首尾一貫した統治原理を見いだすこともできない。それは国王と貴族を中心にした臣民との関係を規制する雑多な,しかも単なる当座しのぎの妥協にすぎない。その内容は,それぞれ王の具体的な専横を制限しようとするものであり,したがってきわめて広範囲である。教会の自由,封建的負担の制限,国王役人の職権濫用の防止,ユダヤ人からの貸借金,民事・刑事の裁判,度量衡の統一,テムズ川の魚梁の破壊や猟林に関する規定等々が含まれている。このような性格を重視し,また19世紀の自由主義的史観への反発もあり,近年はマグナ・カルタは単なる過去の慣習への復帰を目ざしたもの,すなわち封建法の確認とみる説が多い。確かに1215年段階ではこれでもって立憲政治の礎を置くという意図があったとは考えられず,その意味ではマグナ・カルタは第一に封建文書であったことは否定できない。しかし同時に,個々の規定を離れ全体として考えたとき,国政をつかさどることが国王個人の大権であり,また主君に値しない国王に対する対抗手段としてはその王への忠誠の誓いを破棄し,新たな主君すなわち国王を即位させることしか考えられなかった当時(1215年5月5日の貴族の行動を参照),主君に値しない国王を文書によって縛り,その大権を被治者側から制限しようとしたこの試みの新しさは,たとえ意図的ではなかったにせよ,立憲政治の礎としてのマグナ・カルタの輝かしい歴史を生む原因の一つであったことも重視されねばならない。

 ジョンは,マグナ・カルタ発布直後にローマ教皇に頼み,その無効宣言をしてもらった。当然内乱となったが,16年10月に王は病死し,ジョン個人に反抗しての内乱は意味を失った。そして11月,未成年王ヘンリー3世を後見することになった貴族たちは,かなりの部分を削除・修正してマグナ・カルタを再発行した。以後マグナ・カルタは17年,25年に若干内容を変えて再発行され,その後は25年のものが現行法としてたびたび確認されている。しかし17世紀まではその役割を過大視してはならない。むしろ中世末から16世紀いっぱいまではマグナ・カルタは現実政治でほとんど何の役割も演じていない。イギリス立憲政治の発展にとって決定的な時期は,ピューリタン革命と名誉革命とで特徴づけられる17世紀である。マグナ・カルタが今日のように立憲政治の礎としての意義をもたされるのは,この時期にスチュアート朝の専制政治と戦った人々がみずからの主張のよりどころをここに求めたことから始まる。彼らの主張は17世紀の2度の革命を通じて勝利を収め,イギリス立憲政治が生まれたが,これを支える一大典拠としてのマグナ・カルタは,1215年当時有していた意義とはほとんどまったく別の新たな意義を与えられるに至り,権利請願と権利章典とともに,イギリス近代立憲政治を支える柱とされ,現在も憲法の一部であると考えられている。しかし当然のことながら,その多くの条項はすでに廃止されているか,現在では適用しえなくなっている。
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世界大百科事典(旧版)内のマグナカルタの言及

【イギリス】より

…また諸種の改革を行って封建諸侯や教会勢力を抑え,王権の強大化に努めた。しかしこのことは貴族の反発を招き,彼らはジョン王(欠地王)の失政に反抗して,1215年その要求を〈マグナ・カルタ〉として王に認めさせた。つづくヘンリー3世時代にもシモン・ド・モンフォールを中心に結束して国王を破り,従来の聖職者・貴族の集会に州騎士および都市の代表を加えて国政を議した(1265)。…

【基本的人権】より


【基本的人権の成立と発展】
 基本的人権の観念は中世ヨーロッパに芽生える。1215年に成立したイギリスのマグナ・カルタは,国王が封建貴族たちの諸要求を承認した契約文書であり,個人の権利・自由を宣言するものではなかったが,後世における解釈と再確認をとおして,その内容上の制約を超えて発展し,権利保護のシンボルとしての意味をもつようになる。17世紀に至り,国民の権利と自由を保障する権利請願(1628),人身保護法(1679),権利章典(1689)が成文法として登場するが,それらは天賦の人権を宣言するのではなく,祖先から継承したイギリス人の権利を確認するものであった。…

【プランタジネット朝】より

…この国制の展開は,しばしば大陸の所領回復を企てて費用調達を迫る国王とこれに反対して改革を唱える諸侯との対立と妥協を契機としている。〈マグナ・カルタ(大憲章)〉〈オックスフォード条項〉などの国王による認可がそれである。 またこの時代はローマ教皇権が強力となり,集権的統治をすすめる国王と対立した。…

※「マグナカルタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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