ポツダム会談
ぽつだむかいだん
Potsdam Conference
第二次世界大戦の終結により生ずる諸問題を討議するため、1945年7月17日から8月2日まで、ベルリン近郊のポツダム(チェチリエンホーフ宮殿)において開催された米英ソ三国政府首脳の会談。アメリカ側は大統領トルーマンとバーンズ国務長官、ソ連側は首相スターリンと外相モロトフ、イギリス側は、最初首相チャーチルと外相イーデン(7月25日まで)、のちイギリス国内での政権交代の結果、首相アトリーと外相ベバン(7月28日から)らが出席した。
会議では、第1日目、イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーおよびフィンランドとの平和条約を起草し、対独平和取決めを準備するための外相理事会を設置することに合意したものの、以後はドイツに対する処理をめぐって、米英とソ連とが対立し、会議は難航を続けた。とくに大きな対立点をなしたのは、ドイツからの賠償取り立ての問題と、ドイツ東部国境=ポーランド西部国境画定の問題である。賠償問題につき、大戦中の最大の被害国であるソ連は、全ドイツから100億ドル近い賠償額を要求し、一方米英は、ドイツがヨーロッパ平均(英ソを除く)を超えない生活水準を維持できる限度内で、各国がそれぞれの占領地帯から賠償を取り立てることを主張した。また、ドイツの東部国境すなわちポーランド西部国境については、ソ連がポーランドの領土をオーデル川および西ナイセ川の線(オーデル‐ナイセ・ライン)にまで拡大することを要求し、米英はこれに反対を唱えた。こうして会談は、ほとんど最後まで一致が得られるかどうかわからないありさまであった。しかし、7月31日賠償問題について妥協案が得られ、ポーランド西部国境についても、「その最終的画定は平和会議をまたなければならない」というヤルタ方式を再確認することで解決がなった。8月2日、トルーマン、スターリン、アトリーの三首脳は、対独処理原則を含むコミュニケに署名した。
会談開催途中における対日ポツダム宣言の発表といい、ドイツ占領管理原則の確定といい、本会談の歴史的意義はきわめて大きい。
[深谷満雄]
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「ポツダム会談」の意味・わかりやすい解説
ポツダム会談【ポツダムかいだん】
第2次世界大戦の末期,1945年7月17日から8月2日にわたり,ベルリン郊外のポツダムPotsdamで開かれた米・英・ソ3国首脳会談。トルーマン,チャーチル(途中からアトリーに交替),スターリンが出席。主題はドイツの戦後処理につき,非ナチ化,非武装化,戦犯裁判,財閥解体,連合国共同管理等の方針を決定。対枢軸国和平調停の方式を討議。また日本に対しては日本の降伏要件,戦後の日本管理方針を決定,中国の同意を得て7月26日米・英・中3国はポツダム宣言を発表した(8月8日ソ連参加)。
→関連項目オーデル・ナイセ線|ポツダム
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ポツダム会談
ポツダムかいだん
Potsdam Conference
第二次世界大戦末期の1945年7月17日〜8月2日にベルリン西方のポツダムで開かれたアメリカ・イギリス・ソ連3国の首脳会談
ナチス−ドイツの降伏直後,アメリカのトルーマン,イギリスのチャーチル(のちアトリー),ソ連のスターリンによって会談が行われた。その結果,ドイツに関してはナチスの解散をはじめとする戦後処理の大綱を定めたポツダム協定が調印され,アメリカ・イギリス・フランス・ソ連による4国分割占領方式が決定した。また日本に対してはポツダム宣言も発せられた。
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ポツダム会談
ポツダムかいだん
Potsdam Conference
1945年7月 17日~8月2日ベルリン郊外のポツダムで開かれたアメリカ,イギリス,ソ連3国の巨頭会談。 H.トルーマン,W.チャーチル (途中から C.アトリーに交代) ,I.スターリンが出席し,第2次世界大戦後のドイツの処理問題を討議した結果,ポツダム協定で決定をみた。また日本に対しては,降伏条件,戦後処理方式を決定し,中国の同意を得て,7月 26日に米英中3国宣言 (→ポツダム宣言 ) を発表した。
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ポツダム‐かいだん ‥クヮイダン【ポツダム会談】
昭和二〇年(
一九四五)七月一七日から八月二日にかけてベルリン郊外ポツダムで、アメリカのトルーマン、イギリスのチャーチル(途中からアトリー)、ソ連のスターリンが出席し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の戦後処理について
協定(ポツダム協定)を結んだ会談。また、日本に対しては対日共同宣言(ポツダム宣言)が発せられた。
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デジタル大辞泉
「ポツダム会談」の意味・読み・例文・類語
ポツダム‐かいだん〔‐クワイダン〕【ポツダム会談】
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ポツダムかいだん【ポツダム会談 Potsdam Conference】
第2次世界大戦中最後のアメリカ,イギリス,ソ連3国巨頭会談。ドイツ降状後の1945年7月17日から8月2日にかけて,ベルリン近郊のポツダムで開催された。トルーマン・アメリカ大統領,スターリン・ソ連首相,チャーチル・イギリス首相(会談中の総選挙の結果,途中からアトリーと交替した)のほか,3国の外相が出席した。 会談ではとりわけポーランド,ドイツ間の国境画定と,ドイツからの賠償取立て方法とを巡って対立がみられた。
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世界大百科事典内のポツダム会談の言及
【第2次世界大戦】より
…しかしチャーチルは45年7月の選挙で敗北して労働党のアトリーに代わり,またローズベルトも4月病死しトルーマンに代わることになる。7月17日から8月2日までポツダムで最も長い3国首脳会談が開かれた(ポツダム会談)。中心となった問題はドイツの処理問題であり,分割占領・非軍事化・民主主義的政治体制については合意したものの,賠償の問題と統一ドイツ政府の問題では決着をみず,妥協の結果ポツダム協定が締結された。…
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