第2次世界大戦(読み)だいにじせかいたいせん

百科事典マイペディア 「第2次世界大戦」の意味・わかりやすい解説

第2次世界大戦【だいにじせかいたいせん】

1939年9月1日から1945年8月15日,ヨーロッパ・中東・アジア・太平洋全域にわたり,文字通り世界的規模で行われた戦争ファシズム体制をとる日・ドイツ・イタリア3国を中心とする枢軸国に対して,米・英・ソ・中国などを中心とする連合国が,資本主義国と社会主義国という内部対立を含みながらも反ファシズムという共通の目標を掲げて遂行した戦争であった。〔前史〕 第1次大戦後のベルサイユ体制は英・フランスなどの戦勝国を中心とするもので,社会主義国のソ連,敗戦国のドイツ,従属地域諸民族などは多大の犠牲を強いられた。1929年の大恐慌は世界的に深刻な影響を与え,いわゆる相対的安定期は終わり,国際通商戦が激化し,ブロック経済への動きが始まった。恐慌の影響の最も著しかったドイツでは1933年ナチス政権が出現,国際連盟を脱退してベルサイユ体制打破を強行した。1922年すでにムッソリーニの下でファシズム体制を確立したイタリアは1935年エチオピアを侵略(イタリア・エチオピア戦争),1937年国際連盟を脱退。1931年の満州事変以後中国大陸侵略を強行していた日本も,1933年国際連盟を脱退,1937年から日中戦争を開始した。日・ドイツ・イタリア3国の侵略政策に英・米・フランスなど資本主義国はもっぱら宥和(ゆうわ)政策をもって対していた。他方民衆の間には国境を越えて反戦・反ファシズム運動が広がり,労働者階級から中間層まで含んだ人民戦線運動として定着,1936年スペインとフランスでは人民戦線政府が出現した。中国ではすでに1935年の八・一宣言によって抗日民族統一戦線が形成されていた(〈抗日戦争〉参照)。こうした事態にあってドイツ・イタリアは1936年秘密協定を結び,スペイン内乱に介入して人民戦線政府を打倒,また1936年日独防共協定が締結されて,いわゆる枢軸陣営が形成された。次いでドイツはオーストリアを併合,1938年ミュンヘン会談によってチェコからズデーテン地方を割取した。〔開戦〕 ミュンヘン会談後,ドイツはさらにポーランド回廊割譲を要求したが,ポーランドはこれを拒否。ドイツは独ソ不可侵条約を締結したうえで,1939年9月1日突如ポーランドに宣戦,侵攻を開始し,大戦の口火が切られた。ソ連も独自に東部ポーランドを占領。9月3日英・フランスは対ドイツ宣戦を布告したが,以後半年はソ・フィン戦争を除けば双方とも積極的な動きはみせず,いわゆる〈奇妙な戦争〉期を現出した。〔初期の戦況〕 全体の戦局は1940年春から活発となり,ドイツ軍はデンマーク,ノルウェーを占領,中立国オランダ,ベルギーを侵略して一気にマジノ線を突破してパリを占領,英・フランス軍はダンケルクから撤退。6月22日独仏休戦協定が成立,北仏はドイツの占領下に置かれ,南仏は親独的なビシー体制下にあったが,英国へ脱出したド・ゴールは徹底抗戦を唱えて自由フランス運動を開始。この間イタリアも参戦,9月には日独伊三国同盟が成立。1940年後半から1941年前半にドイツ・イタリア軍は北アフリカ,バルカン,中東に進出した。1941年6月ドイツはソ連侵略を開始,秋にはレニングラード,モスクワに迫った。これに対し英国はソ連と同盟を結び,米国はソ連援助を開始,英・米両国は大西洋憲章を発表して広範な反ファシズム体制を打ち出した。12月日本は真珠湾を奇襲,太平洋戦争が始まり,米国は日・ドイツ・イタリアに宣戦,日中戦争を含めてヨーロッパとアジアの戦争は完全に一体化した。1942年1月連合国共同宣言が発表され,反ファシズム戦争の遂行,単独不講和などを約した。〔戦局の転換〕 1942年半ばまでは枢軸国側が優勢で,アフリカ戦線ではスエズに迫り,東部戦線ではスターリングラードを包囲した。しかし西部戦線では連合国軍がヨーロッパ本土爆撃を開始,ドイツ占領地帯でのレジスタンス運動が激化してきた。アフリカ戦線では1942年11月英・米軍がモロッコ,アルジェリアに上陸,ドイツ軍はエル・アラメインの戦に敗れ,1943年5月連合国軍は完全にアフリカを制圧した。東部戦線でもソ連軍は1943年2月スターリングラード攻防戦でドイツ軍30万を包囲せん滅,総反撃に転じ,これが大戦全体の画期となった。7月ムッソリーニは失脚してバドリオ政権が誕生,9月英・米軍がイタリア本土に上陸,同3日イタリアは降伏し,10月対ドイツ宣戦を布告した。〔戦局終結〕 1944年6月6日連合国軍はノルマンディー上陸作戦に成功して第二戦線を形成,フランス国内のレジスタンス組織もこれに呼応して8月パリ解放が実現した。さらに12月アルデンヌにおけるドイツ軍最後の反攻(いわゆるバルジ作戦)を撃破した連合国軍は,1945年3月ライン川を越えてドイツ領に進攻した。東部戦線でもソ連軍はバルカンから東欧に進み,1945年1月ワルシャワ,4月ウィーンを占領,ユーゴは独力でドイツ軍を駆逐した。その間に,ドイツ軍に救出され北イタリアに新政権を立てたムッソリーニもレジスタンス組織に捕らえられ,4月28日銃殺。連合国軍は東西からベルリンを包囲し,4月30日ヒトラーは官邸内で自殺,5月2日ベルリンは陥落,ドイツは同8日降伏してヨーロッパの戦争は終わった。アジアでも日本は広島,長崎に原子爆弾を投下され,8月15日ポツダム宣言を受諾して無条件降伏し,第2次大戦は完全に終わった。〔連合国首脳会談〕 1943年10月モスクワ外相会議,11月カイロ会談テヘラン会談が開かれて米・英・ソを中心とする連合国の協力関係は著しく進んだ。1945年2月ヤルタ会談では戦後処理に関する具体案が決定され,米・ソ2大国支配体制が準備された。7〜8月ポツダム会談では日・ドイツ両国に対する戦後処理方針が確定,ポツダム宣言が発せられた。それより先の1944年ダンバートン・オークス会議で国連憲章草案が作成され,1945年サンフランシスコ会議国際連合設立が決定された。〔結果〕 国際連合の発足で新しい国際秩序が生まれ,そこでは米・英・フランス・ソ・中5ヵ国が中心となった。しかし,実際には米・ソ2大国の支配体制が確立し,第2次大戦で協力した両国も,戦後いち早く資本主義国・社会主義国の指導者としてブロック化を進めた。西欧では自由主義諸国が再興し,マーシャル・プランが実施され,また北大西洋条約機構(NATO),東南アジア条約機構,ヨーロッパ経済共同体(EEC)などが米国の指導で創設された。東欧では人民民主主義国が成立,コミンフォルム,コメコン(COMECON),ワルシャワ条約機構などがソ連の指導で創設され,また中ソ友好同盟相互援助条約なども生まれた。こうした東西二大陣営の対立は冷戦と呼ばれて戦後世界を特徴づけた。敗戦国との講和もこの情勢を反映して複雑となった。イタリアは早く自由陣営の一員として再興されたが,オーストリアは両陣営の妥協策として中立国化され,ドイツは分割占領を経て東西分裂を余儀なくされ,日本も米国勢力下に置かれた(サンフランシスコ講和条約)。また日・独両国指導者が戦争犯罪人として東京裁判ニュルンベルク裁判で処罰された。第2次大戦の結果生じた事態としては,上記のような少数大国による世界支配のほか,1.アジア,アフリカ,ラテンアメリカの民族解放運動が高まり,これを背景としていわゆる第三世界勢力が形成されたこと,2.国境を越えた規模で民衆運動が高まり,反戦運動が国際性を帯びたことなどがある。こうした動きが少数大国支配体制を揺り動かして新しい国際関係の成立を生み出す可能性をもちはじめた。〔損害〕 この大戦には枢軸国側9ヵ国,連合国側51ヵ国が参戦。軍人・市民を合わせ死者約2200万,負傷者約3440万といわれるが,中国や東欧などの一般市民の未確認数を考慮すれば,死者だけで4000万以上と推定される。また直接戦費は1兆1540億ドルに達した。
→関連項目アンネの日記国家総動員法サン・モリッツオリンピック(1948年)ダンケルク撤退作戦パリ条約引揚げ松代大本営闇市歴史認識問題ロンドンオリンピック(1948年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「第2次世界大戦」の意味・わかりやすい解説

第2次世界大戦
だいにじせかいたいせん
World War II

1939~45年に世界のほとんどを巻き込んだ大規模な国際紛争。1931年に勃発した満州事変以降をいう場合もある。枢軸国(ドイツ,イタリア,日本)と連合国(フランス,イギリス,アメリカ合衆国,ソビエト連邦,中国)の二つの陣営に分かれて戦われたこの戦争は,第1次世界大戦で解決できなかった根強い対立が,20年間の中断を経て吹き出したものといえる。第1次世界大戦に敗れた苦い思いや,ベルサイユ条約の過酷な賠償,社会不安や政情不安など,ドイツ(ワイマール共和国)をめぐる諸条件は,極端な愛国主義と反ユダヤ主義の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者,アドルフ・ヒトラーの台頭を招いた。1933年,独裁的な権力を得たヒトラーはひそかに再軍備を始めた。イギリス,フランスの宥和政策(→アピーズメント・ポリシー)に乗じたヒトラーは,1936年3月ベルサイユ条約に違反して,ラインラントの占領を命じた。すでにエチオピア侵略にとりかかっていたイタリアのファシスト党指導者ベニト・ムッソリーニは,この年ローマ=ベルリン枢軸を宣言した。翌 1937年イタリアは,日本とドイツが 1936年に結んだ日独防共協定に参加した。またドイツとイタリアは反共産主義の名目で,1936年に勃発したスペイン内乱に干渉した。
1938年3月,ヒトラーはオーストリアへ出兵し,これを併合した(→アンシュルス)。さらに 1939年3月には,内外の圧力を巧みに利用してチェコスロバキアの分割にも成功,4月にはイタリアがアルバニアを併合した。8月東ヨーロッパの勢力範囲を定めた独ソ不可侵条約が締結され,これに大きな衝撃を受けた英仏陣営が対策に焦っている間に,9月1日ドイツはポーランド侵攻を決行,9月3日イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。1939年の終わりには,ポーランドがドイツとソ連によって分割され,さらにソ連はエストニア,ラトビア,リトアニアを占領し,フィンランドへ侵攻,1940年3月フィンランドは降伏した。数ヵ月にわたってドイツ軍の主要な活動は海上で行なわれ,特にイギリス行きの商船に対する攻撃は効果的であった。1940年4月,ドイツはノルウェーの港の一部と,デンマークのすべての港を占領した。5月10日,西部戦線のドイツ軍主力部隊は,オランダ,ベルギーを経由してフランスへ向かう電撃作戦を開始した。6月22日にはパリを含むフランス領の 5分の3がドイツに占領され,残りはビシー政府のもとで中立地帯とされた。8月から 9月にかけて,ドイツ空軍はイギリス本土侵攻を目的とする大規模な爆撃を行なった。だが,イギリス本土航空決戦に勝利を収めたのはイギリス空軍で,この結果ヒトラーはイギリス本土への侵攻を無期限延期とした。11月,イタリアのギリシア侵攻が失敗に終わったのち,ヒトラーはハンガリー,ルーマニア,スロバキアを枢軸国に引き入れた。ブルガリアもドイツの説得を受け入れ,1941年3月日独伊三国同盟に加盟した。4月,ドイツはユーゴスラビア,ギリシアへ侵攻し,両国は 1ヵ月足らずで降伏した。6月,ヒトラーは 1939年の独ソ不可侵条約を破棄し,突如としてソ連に対して大規模な電撃作戦を実施した。ドイツ装甲部隊はソ連領内深くまで攻め込み,一時はモスクワの一歩手前まで到達したが,ソ連軍の反撃と冬の厳寒期の到来で,それ以上進めなくなった。
一方,もう一つの枢軸国である日本は,日中戦争が長期間にわたって泥沼化しており,ヨーロッパの混乱に乗じて,極東アジアにあるヨーロッパ諸国の植民地を獲得しようと決意した。戦争が拡大すればアメリカが最大の対抗勢力となるに違いないと考えた日本は,機先を制しようと,1941年12月7日から 8日にかけて,ハワイの真珠湾の軍事施設とそこに停泊するアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した。アメリカはすかさず全枢軸国に対して宣戦布告した(→真珠湾攻撃)。日本はフィリピン,ビルマ(ミャンマー),オランダ領東インド(インドネシア)など東南アジアのほとんどと太平洋の島々を占領するなど,迅速な攻撃で初期には大きな戦果を上げたが,1942年6月,ミッドウェー海戦で決定的な敗北を喫した。
北アフリカでは,1940~41年にはるかに優勢なイタリア軍を打ち破ったイギリス軍が,ドイツのアフリカ装甲部隊を相手に,一進一退の膠着状態にあった。1942年11月,英米連合軍の北アフリカ上陸作戦が開始された。ドイツ軍はずるずると撤退し,チュニジアへ追いつめられ,1943年5月,ついに全軍が降伏した。6月,連合軍は北アフリカをたってシチリア島へ上陸し,そこを足場に 9月にはイタリア本土へ侵攻した。ファシスト政権は倒され,10月にはイタリアは連合国側へ入り,この後イタリア領内ではドイツ軍との戦いが終戦まで続いた。
激しい抵抗にあい,結局は失敗に終わったスターリングラードの戦い(1942年8月~1943年2月)ののち,ソ連領内のドイツ軍は勢いを失った。ソ連軍は引き続き兵力を増強し,1943年にはソ連西部からドイツ軍を一掃した。一方西部戦線では,ドイツは連合国の大陸進攻に備えなければならなかった。1944年6月6日,ドワイト・D.アイゼンハワー将軍の指揮のもとイギリス,カナダ,アメリカの連合軍 15万6000人が,北フランスのノルマンディーに上陸した(→オーバーロード作戦)。制空権を握った連合軍は,すばやく足場を固めたのち東へ向かい,1945年3~4月にはドイツ本土を占領した。ソ連軍は 1944年には領内から完全にドイツ軍を駆逐したばかりか,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリー,ルーマニアにまで進出し,1945年初めにはドイツの東側 3分の1を占領した。ソ連軍がベルリンを包囲するなか,ドイツ崩壊に直面したヒトラーは 1945年4月30日自殺,5月7日ドイツは無条件降伏した。太平洋では,アメリカのダグラス・マッカーサー将軍指揮下,連合軍は 1944年10月フィリピン攻略にとりかかり,日本海軍はレイテ湾海戦で壊滅的な打撃を受けた。激しい戦闘の末 1945年3月に硫黄島(→硫黄島の戦い)を,6月に沖縄(→沖縄の戦い)を攻略した連合軍は,日本本土への大規模な戦略爆撃と,地上部隊による本土上陸を可能にした。8月6日に広島,9日に長崎に原子爆弾が投下され(→原子爆弾投下),9月2日,日本は降伏文書に正式調印,第2次世界大戦は終結した。

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世界大百科事典 第2版 「第2次世界大戦」の意味・わかりやすい解説

だいにじせかいたいせん【第2次世界大戦 The Second World War】

通常,1939年9月1日ドイツのポーランド侵攻から45年9月2日の日本の降伏文書調印まで続けられた戦争は〈第2次世界大戦〉といわれる。この期間ドイツ,イタリア,日本の枢軸国側とイギリス,フランス,アメリカ,ソ連,中国などの連合国側とが,大西洋,ヨーロッパ,北アフリカ,そして太平洋,東アジアを主たる戦場として巨大な規模の戦争を展開した。この戦争は,(1)当時の大国のほとんどが戦争に参加したこと,(2)また当時の先進国領土が戦場となったこと,(3)このため戦争により国際秩序が根底的に変化したことから,まさに〈世界大戦〉といえるものであった。

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世界大百科事典内の第2次世界大戦の言及

【アメリカ合衆国】より

…【斎藤 眞】
【経済,産業】

[経済成長への離陸]
 アメリカ合衆国は,世界のうち土地面積では約6%,人口は約5%を占めるにすぎないが,国民総生産では約22%にも達する世界第1の経済大国であり,その規模は2位以下のソ連や日本を2倍程度引き離している(1979)。もちろん,この世界経済に占めるアメリカの相対的地位は,かつて圧倒的優位を誇った第2次世界大戦の終了時と比較すると明らかに低下している。しかし,それでもなお今日,国際政治や軍事力と並んで,経済力においても世界の最強国であることに変りなく,また国民所得や生活の水準でも世界最高のグループに属している。…

【戦間期】より

…第1次世界大戦の終結(1918年11月)から第2次世界大戦の勃発(1939年9月)までの約20年間を指すが,この時期は,国際政治史の観点からすれば,戦後処理から安定に向かった1920年代が大恐慌の突発(1929)によって一挙に暗転し,激動と対立の30年代につなげられ,再び世界大戦へと帰結する,〈20年間の休戦〉とも呼びうる時期であった。 一般に1880年代以降,世界は近代から現代へと移り変わりはじめ,第1次大戦はこの転換過程を加速したといわれているが,戦間期はこうした流れが一時的に中断され,古い要素と新しい要素が入りまじり,せめぎ合ってユニークな合成効果を生んだのであった。…

【戦争犯罪】より

…第2次世界大戦末まで一般に使われてきた意味に従えば,戦争犯罪とは,戦争法規に違反する行為であって,それを行いまたは命じた者を交戦国が捕らえた場合,これを処罰しうるものをいう。日本では,戦時犯罪または戦時重罪と呼ばれてきた。…

【大祖国戦争】より

…1941‐45年のソ連邦とドイツおよびその同盟国との戦争に与えられたソ連側の呼称。第2次世界大戦の一部を構成するもので,1941年6月22日,ドイツ側の奇襲攻撃に始まり,45年5月8日,ベルリン近郊カールスホルストにおけるドイツ軍の無条件降伏文書の調印をもって終わった。ソ連側では3期に区分しており,第1期(1941年6月~42年11月)は防衛戦闘から戦線の膠着(こうちやく)化まで,第2期(1942年11月~43年12月)はスターリングラード(現,ボルゴグラード)における反撃から総反攻への移行まで,第3期(1944年1月~45年5月)はウクライナ解放からベルリン陥落までとしている。…

【太平洋戦争】より

…1941年12月8日から45年9月2日にかけて日本と連合国とのあいだで戦われた戦争。
【戦況】

[戦争の原因]
 太平洋戦争は満州事変および日中戦争とともに十五年戦争と総称され,十五年戦争の第3段階にあたり,かつ第2次世界大戦の重要な構成要素をなす戦争である。近年は,戦争の実質からして〈アジア・太平洋戦争〉という呼称も提唱されている。…

【レジスタンス】より

…第2次世界大戦期,枢軸国,とくにドイツの占領下に置かれた諸地域において起こった,占領支配に対する抵抗運動。広義には,中国の抗日闘争をも含めて,アジア諸地域における日本の占領支配への抵抗にも,この言葉が用いられることがあるし,また他方,ナチズムに対する抵抗というような,ファシズム体制へのそれぞれの国の反対の動きに関して用いられる場合もあるが,後者は反ファシズム運動として扱われるものであり,ここではヨーロッパに限定して占領支配への抵抗の意味でみていくことにする。…

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