ベリー(Chuck Berry)(読み)べりー(英語表記)Chuck Berry

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ベリー(Chuck Berry)
べりー
Chuck Berry
(1926―2017)

アメリカのロックン・ロール・ミュージックをつくり上げた黒人シンガー、ギタリストセントルイスに生まれる。本名はチャールズ・E・A・ベリーCharles Edward Anderson Berry。

 10代のころからバンドを組み、地元のクラブで歌っていた。このクラブ巡りで彼はその後の音楽生活において重要なことを知る。それは、クラブに集まってくる観客(黒人)の好みはけっして一様ではないということだった。彼らは、当時全盛だったブルースはもちろん、ソフトで都会的なナット・キング・コールのような音楽を好むと同時に、白人のひなびたヒルビリー・ミュージックにも関心があった。これらを上手にブレンドすると、客席から大きな拍手が起こったのである。子供のころから周囲の気運を読むことに長(た)けていたベリーは、クラブでの経験をもとに、ヒルビリーやカントリーなどの白人音楽のセンスを、彼の音楽の土台であるブルースやリズム・アンド・ブルースに加えていった。ここにできあがったのが、エネルギッシュなブルース・リズムを軽妙なビートに変化させ、洒落(しゃれ)のきいた歌詞をさらりとした歌唱で料理するという、チャック・ベリー式の新しいミュージックだったのである。同時に、印象的なリフレインを使った切れ味さえる彼のギターも、曲全体の強いアクセントとなった。

 このようなエレクトリック・ギターを中心にすえた小編成のバンド・スタイルは、その後のロック・ミュージックの原型となった。彼は、ピアニストのジョニー・ジョンソンJohnnie Johnson(1924―2005)らとトリオを組み、このサウンドをもとに当時破竹の勢いだったアイク・ターナーIke Turner(1931―2007)と地元セントルイスのクラブで人気を競うまでになった。ちなみにロックン・ロール不朽の名作として知られるベリーの「ジョニー・B・グッド」の「ジョニー」とは、長年の相棒であるジョンソンの名前から取ったものである(ただしジョンソンは、2000年になってベリーからこれまで曲の著作権に関して正当な扱いを受けてこなかったとして訴訟を起こしている)。

 1955年、ブルースの牙城(がじょう)であったシカゴのチェス・レコードから「メイベリーン」を発売。このデビュー曲はリズム・アンド・ブルース・チャートで1位、ポップ・チャートで5位というみごとな成績を収め、彼は一夜にしてスターの仲間入りを果たした。実は「メイベリーン」は原型がカントリー・ソング「アイダ・レッド」で、これをベリーが黒人音楽的にアレンジしたものだった。題名もそれまでの地味なものから有名な化粧品会社の名前にかえている。ベリーのマーケットを読み取る才能は抜群で、それは「メイベリーン」だけでなく、自分の音楽がおもに10代の、それも白人を主体とする人々によって好まれていると知るや、彼は性の謳歌(おうか)など黒人音楽的な表現を抑え、表向きは人種に関係なく、青少年が聴き快活に踊れる内容に変えていった。30代にさしかかった大人の黒人歌手がつくった10代の青少年ための音楽、それがベリーのロックン・ロールだった。

 「ロール・オーバー・ベートーベン」「ロックン・ロール・ミュージック」「スウィート・リトル・シックスティーン」「キャロル」「ジョニー・B・グッド」ほか、数多くの名作、ヒット曲を生んだ1950年代後半はベリーにとって輝かしい時代だった。ボ・ディドリーBo Diddley(1928―2008)、リトル・リチャードLittle Richard(1932―2020)、ファッツ・ドミノほか、多くの黒人シンガーが白人のマーケットに紹介されたとき、彼らはリズム・アンド・ブルースではなくロックン・ロールの歌手として扱われたが、なかでもベリーは筆頭の位置にあった。

 1950年代後半、大金持ちとなったベリーは、人種差別が色濃く残っている地元セントルイスで肌の色を問わない音楽クラブを開店し、加えて広大なテーマ・パークまで建設しようとした。しかしこの大げさな態度が当局の反感を買い、クラブに1人の少女を雇ったことが、不道徳な行為を目的として他州から女性を移動させることを禁止する「マン法」に触れたとして逮捕され、彼は1962年から1963年のあいだ服役する。この差別的な事件が、ベリーを他人をおいそれとは信じない性格に変えていったとされる。1979年に彼は脱税でふたたび投獄されるが、これも「奇人」のイメージをさらに強める原因となった。

 その反面、1960年代以降は「チャック・ベリー・チルドレン」ともいうべきロック・ミュージシャンが続々と登場し、彼は生きる伝説のような存在となった。その一人であるジョン・レノンは、「ロックン・ロールを別のことばでいおうとするなら、それはチャック・ベリーだ」という有名な賛辞をおくっている。

 1972年に発売されたライブ盤『ザ・ロンドン・セッションズ』からカットされたシングル「マイ・ディンガリン」が、彼にとっては初めてのゴールド・ディスクになった。1986年、ロックン・ロールゆかりの地であるオハイオ州クリーブランドのロックン・ロール殿堂博物館から、第1回目の殿堂入りメンバーに認定された。

[藤田 正]

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