出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
オーストリアの作曲家。18世紀中葉から19世紀初めにかけて,音楽様式そのもの,あるいは社会における音楽のあり方が大きく変わる時代に生き,新しいいわゆる〈古典派〉様式の成立に最も重要な貢献をなし(古典派音楽),数多い傑作を残した。彼は存命中から声望高く,また彼の音楽が当時の音楽様式を代表するような模範的存在であったこともあって,彼の名をかたった偽作はことのほか多い。そのため作品の整理と作品全集の出版は困難をきわめ,1958年以来20世紀末の完結を目ざしてケルンのハイドン研究所が《ハイドン全集》の刊行に取り組んでいる。西洋音楽史における大きな峰であるこの大家は,生誕250年を過ぎてようやくその全貌を現しつつある。
ハイドンはウィーンから南東へ約50kmにあるローラウという町に生まれた。おそらく1740年にウィーンに出てきて,約20年間そこで暮らす。そのうち最初の約10年間はシュテファン聖堂で少年合唱団員として過ごし,変声期を迎えてそこを追い出されたあとの約10年は,主として定職のない音楽家としての,いわば放浪生活であった。すなわち,彼の音楽家としての出発点は,ウィーンの宮廷楽長として大きな影響力のあったJ.J.フックス(1741没)亡きあと,終わりつつあるウィーンにおける後期バロックと,ウィーンに住む若手作曲家の周辺で始まりつつあった初期古典派音楽とにあった,といえよう。
1750年代の終りころ,ボヘミアのモルツィン伯爵家の楽長として雇われたが,まもなく楽団解散のため失職。61年よりアイゼンシュタットのエステルハージ侯爵家に副楽長として就職し,66年に前任者の死によって楽長に昇格。1762年に新しく当主となったニコラウス侯が90年に死んで楽団が解散されるまで,侯爵家の音楽生活の責任者としての務めを果たす。1750年代末から書き始めた交響曲を,とくにエステルハージ時代にほとんど休みなく量産し,このジャンルがのちに西洋音楽の最も代表的な曲種となる素地をつくった。ハイドンは一般に〈交響曲の父〉などといわれているが,このジャンルの成立は,もとより一人の作曲家に帰せられるものではないし,また当時おそらく1万曲にも及ぶ交響曲創作が行われた。とはいえ,産声をあげたばかりのこのジャンルの育成に彼が大きく貢献したのは事実である。
1750年代後半に10曲の作品を書いていた弦楽四重奏曲の分野では,1769年ころから72年に集中的に18曲(いわゆる作品9,17,20の3曲集)を作曲,81年以後再びときどき創作に向かっている。また1765年ころ以後,ニコラウス侯の好んだ弦楽器バリトンのために,侯のその楽器に対する情熱がさめる73年ころまで,150曲を軽く超える作品を書いた。1766年以後,楽長昇進によって教会音楽の作曲もハイドンの職務となり,また同じ年に離宮エステルハーザにオペラ劇場が完成したことによってオペラの創作も増えてくる。また人形劇場の完成に伴い,70年代にはマリオネット・オペラも作曲されるようになったが,それは一時的なものに終わり,また現存している作品はきわめて少ない。
76年からエステルハージ侯爵家ではオペラ活動がいっそうの華やかさを増し,音楽生活の中心となっていく。それに伴い楽員たちが増強される一方,ハイドン自身にとっても他人のオペラの上演者としての仕事が増していく。こうした侯爵家における趣味の変質とともに,80年代に入って彼はむしろ邸外のために音楽を供給するようになる。そうしてパリからの注文に応えて書いた6曲のいわゆる《パリ交響曲集》や,スペインから依頼のあった管弦楽曲《十字架上のキリストの最後の七言》や,出版を目的としたと思われる弦楽四重奏曲集などが生まれる。侯爵の死によって永年の宮廷仕えから解放されたハイドンは,興行主ザロモンの招請に応えて,90年12月にロンドンへ向けて出発する。以後95年まで,2度にわたる計約3年のロンドン滞在で,一挙に広範な公衆の前に登場した。ここに,伯爵家の小さな楽団と,限られた特定の聴衆のために奉仕していた前半生からの,劇的な転換があった。それは同時に,大きな影響力をもつ印刷楽譜の出版に1780年以後積極的にかかわることができるようになったこととも重なり合って,彼を貴族社会の音楽家から,近代市民社会のそれへと変貌させることにもつながった。ロンドンで演奏するために書いた12曲の交響曲集《ザロモン・セット》はこのジャンルにおける彼の全創作(106曲)をしめくくる総決算となった。
95年8月末以後彼は,楽団を再建したエステルハージ侯爵(ニコラウス侯の孫)に再び楽長として仕えたが,このニコラウス2世はウィーンの邸宅に住むのを好んだので,彼は音楽需要の高いウィーンを離れることなくすんだ。こうして,この宗教音楽好きの新しい侯爵の要求に応じて,彼の晩年を飾る6曲のミサ曲が生み出される一方,相変わらず弦楽四重奏曲など,出版を目的とした器楽曲が書かれ続けた。この時期にはまた,彼が到達した芸術性と彼の芸術が獲得した民衆性をみごとに結合させたものとして,二つのオラトリオ,《天地創造》(1798)と《四季》(1801)が書かれた。1803年以後創作活動から引退した。
執筆者:大崎 滋生
オーストリアの作曲家。F.J.ハイドンの弟。1745年ころ,兄を追ってウィーンに出てシュテファン聖堂の聖歌隊員となる。57年にはグロースワルダイン(現,ルーマニアのオラデヤ)の司教宮廷楽団楽長となった。63年ザルツブルクの大司教宮廷楽団のコンサート・マスターに任命され,以後同地で生涯を送った。モーツァルト父子と同僚であり,個人的にも親しく交流した。宗教的ジングシュピール《第一戒律の責務》は,W.A.モーツァルトとM.ハイドンとアドルガッサーA.C.Adlgasserの合作である。77年ザルツブルクの三位一体教会オルガン奏者を兼務,そしてW.A.モーツァルトがウィーンに去った後,ザルツブルク大聖堂オルガン奏者の地位を彼から引き継いで兼務するようになる。作曲家としては教会音楽の作曲に傑出していたといわれる。とりわけ1771年に大司教の死に際して書かれた《ハ短調レクイエム》は有名で,兄の葬儀の際にも演奏された。なおこの作品は20年後のモーツァルトの《レクイエム》と多くの著しい類似を示している。ほかに大司教が宮廷で使用するための交響曲,ディベルティメント,その他の室内楽,またアマチュアのために書いたたくさんの男声4声のための重唱曲なども残っている。兄の作品と混同されるものも多かったが,それらは一応今日では整理されている。
執筆者:大崎 滋生
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1732~1809
ドイツの音楽家。交響曲の父と呼ばれ,端正な古典的シンフォニーを創造するとともに,主題の明確なソナタ形式を完成した。弦楽四重奏曲やオラトリオでも有名。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…交響曲という不可侵の威厳が確立されていたわけでもなかった。交響曲は特定の聴衆の趣味や,演奏の目的・機会等のもろもろの現実的制約に従って構想された(例えばハイドンはエステルハージ侯家宮廷楽団のそのときどきの楽員構成に応じて作曲しなければならなかった)。同一作品ないし楽章が,別の機会のために換骨奪胎されて他の作品に転用されたり,セレナーデなど他のジャンルからの寄集めにすぎないものもあった。…
…狭義には1770‐1830年のハイドン,モーツァルト,ベートーベンを中心とする約60年間のウィーン古典派音楽をさす。このうちベートーベンは古典派音楽を完成しつつ次に来るロマン主義への志向を示している。…
… イタリアのベネト地方の田園生活の四季を歌いあげたソネットが付随する。(2)ハイドンの晩年のオラトリオ《四季Die Jahreszeiten》(1801) 台詞はスコットランドの詩人J.トムソンの原作をG.B.vanスウィーテン男爵がドイツ語に編作したもの。小作人シモン,娘ハンネ,若い農夫ルーカスを主人公に,合唱,管弦楽を駆使して,季節によって推移する田園の牧歌的情景と大地に根ざした生活の営みを歌い上げる。…
…小人数の奏者から成る演奏団体。〈管弦〉と訳されるが,実体は弦楽器のみの編成,弦楽器にチェンバロを加えた程度の編成の団体も多い。人数は一定しないが,弦楽器のみの場合の十数名から,管楽器を含む場合でも二十数名程度の団体が一般的である。バロック時代から,古典派初期までは,ほとんどこの程度の編成の団体がオーケストラと呼ばれていた。19世紀に入ってオーケストラはしだいに大型化し,19世紀末には巨大なものとなったが,20世紀に入ってから一種の反動として室内管弦楽団が復活した。…
…盛期古典派では,交響曲と同様,舞曲楽章としてメヌエットが,さらにベートーベンではスケルツォが組み入れられ,4楽章のソナタも出現した。 作曲家としては,前古典派ではさまざまな楽派が独自の様式を形成していったが,とくにイタリアのG.B.サンマルティーニ,D.アルベルティ,L.ボッケリーニ,スペインで活躍し550を超える鍵盤ソナタを残したD.スカルラッティ,スペインのA.ソレル,ウィーンのG.C.ワーゲンザイル,マンハイムのJ.シュターミツ,北ドイツの多感様式の代表者フリーデマン・バッハ,ハイドンに影響を与えたエマヌエル・バッハ,J.G.ミュテル,パリのJ.ショーベルト,ロンドンで活躍し若いモーツァルトに影響を与えたJ.C.バッハ,そしてベートーベンに影響を与えたM.クレメンティらの名はよく知られている。盛期古典派では,クラビーア・ソナタの傑作群がハイドン(五十数曲),モーツァルト(25曲),ベートーベン(32曲)の3巨匠によって生み出された。…
…83年ザルツブルク帰郷を挟み,84年暮れにはフリーメーソン結社に加わる。このころハイドンにささげられた6曲の《ハイドン四重奏曲》やピアノ協奏曲などの力作,傑作が多数生み出されている。ニ短調の《ピアノ協奏曲》(第20番。…
…こののちロマン派の作曲家には,シューマン,リスト,ワーグナーをはじめとして,著述活動に携わる者が多く出た。ホフマンはハイドン,モーツァルト,ベートーベンの音楽に純粋なロマン主義の表れを認めた。とくにベートーベン(第3,第5,第6,第7,第9交響曲)はロマン派全体にとって偉大な模範となり,ロマン主義の理想像ともされたのであった。…
…モーツァルトの《ピアノ・ソナタ》(K.331)の第3楽章のトルコ行進曲は最も有名であるが,そのほかモーツァルトの《バイオリン協奏曲第5番》(K.219)もフィナーレにこの語法を取り入れている。また,M.ハイドンも付随音楽《ピエタス》(1767)にトルコ行進曲を含み,《ザイール》(1777)にもトルコ組曲が含まれている。ベートーベンにも《トルコ行進曲》と通称されるピアノのための《六つの変奏曲》作品76(1809)があり,その主題は,祝典劇《アテネの廃墟》作品113(1811)のトルコ行進曲にも用いられている。…
※「ハイドン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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