キリスト教系大学(読み)キリストきょうけいだいがく(英語表記)Christian colleges and universities in Japan

大学事典 「キリスト教系大学」の解説

キリスト教系大学
キリストきょうけいだいがく
Christian colleges and universities in Japan

カトリック教会のアジア宣教の時代にいっとき小さいが特徴的な足跡を印してから,江戸時代の鎖国を経て明治の近代化の延長線上にある現代まで,キリスト教系高等教育は日本の宗教的な教育機関の歴史において特異な位置を占めている。それはしばしば日本の近代化の唯一のモデル(西欧)に潜む危険イデオロギーの伝達機関と警戒されつつ,同時に歴史の節目節目で,女性の人権や民主主義の根拠など多くの点で,日本人の蒙を啓きもしてきた。今日,西欧と日本の双方で世俗化が進行し,キリスト教系大学の存続に黄信号がともりつつあるが,以下では日本のカトリックプロテスタント系高等教育機関の足跡をたどりその現状を検討する。

[カトリック]

狭義には,カトリック教会の正式の認証を受けた大学をカトリック大学と呼び,国内では日本カトリック大学連盟に加盟する大学が該当する(このほかに「日本カトリック短期大学連盟」加盟校があり,また両連盟に加盟していないカトリック系大学も数校ある)。これらのほとんどは来日したカトリックの修道会が設立母体となっているが,宗教法人である修道会は学校法人となれないため,修道会の会員が理事や教職員として大学に関与して精神的支柱となり,教育の特徴を守ってきた。ただし,カトリック信徒数がきわめて少ない日本社会では,キリスト教信仰を前提にした教育ではなく,キリスト教の持つ普遍的価値に根ざした全人教育を目的として掲げている。また,近年では教職員を務める修道者数は著しく減少しており,カトリック信徒や卒業生の教職員を中心に大学の独自性をどのように守っていくかが課題となっている。

 16世紀に来日したイエズス会は,日本にも大学を設立する計画を持っていたが実現しなかった。ただし,1581年(天正9)豊後国に設置されたコレジヨ(Collegio,大神学校)は,日本最初のキリスト教系高等教育機関となった。これは聖職者養成を目的とするものではあったが,それ以外の学生も受け入れて人文学課程の教育を行ったほか,辞書や教義書の出版事業も行い,江戸幕府によって宣教師らが追放される1614年(慶長19)まで存続した。

 明治時代に再来日したカトリック教会が行った教育事業は,孤児院とそれに併設された小学校など社会福祉事業としての性格の強いものから始まり,中高等教育への進出は遅かった。1906年(明治39),日本にそれまでなかったカトリック系の高等教育機関を求める声が高まったことに応えて,ローマ教皇ピウス10世はイエズス会と聖心会にそれぞれ男子,女子の高等教育機関の設置を要請した。両者とも,1908年に会員を派遣した。イエズス会は,1913年(大正2)に専門学校令による大学として上智大学(哲学科・独文科・商科)を開校し,聖心会も翌年女子高等専門学校(英文科)を設立した。ほかにもカトリック修道会を母体として数校の旧制専門学校が戦前に開校したが,これらのうち大学令(大正7年公布)による認可を受けて旧制大学となったのは上智大学のみであった(1928年)。これらは第2次世界大戦後の学制改革によっていずれも新制の大学・短期大学に移行した。さらに1950(昭和25)~60年代を中心に進学熱の高まりを受けて,全国各地にカトリック系の女子短期大学が誕生している。1990年代に大学設置基準が緩和されると,短期大学の中には4年制大学に改組されたり,母体を同じくする4年制大学に合流したりしたものもある。

 カトリック大学では,人文系・社会系・理工系にまたがる複数学部を持つ大規模総合大学は2校(上智大学・南山大学)のみであり,他は入学定員が500名に満たない人文系,看護・福祉系,生活科学系等の1学部からなる単科大学が多い。短期大学は看護・福祉系や保育・幼児教育系が多い。また,女子大学が多いことも特徴で,女子の大学進学率がまだ低かった時代に女子高等教育に一定の役割を果たしたといってよい。日本カトリック大学連盟に所属する大学は18校(うち女子大学は11校),学生数は約4万人,日本カトリック短期大学連盟は16校(うち女子校は12校),学生数は約5000人(2015年現在)
著者: 加藤和哉

[プロテスタント]

プロテスタント系大学の伝道は,幕末に来日した英米圏のキリスト教各派の外国人宣教師たちによって開始された。宣教師たちは教育を通しての伝道が有効であることを早くから見抜き,禁教下に外国人居留地で英語の私塾を開き,聖書も教授した。明治初めの文明開化路線は広く国民の間に欧米文明や英語への関心を引き起こし,宣教師の設立した塾は発展してキリスト教学校となり,有為の青年を集めた。また新島襄(1843-90)による同志社英学校の創立(1875年)は,日本人キリスト者による学校設立の一例である。女子に関しては婦人海外宣教団体が経営するミッション・スクールが全国各地に設立され,活動的な新しい女性像を掲げて明治期のキリスト教初等・中等女子教育をおもに担った。

 しかし,明治20年代以後,明治政府はそれまでの欧化政策から転じ,大日本帝国憲法教育勅語の制定により,急速に天皇制を中心とする国家主義へと舵を切った。さらに1899年(明治32)の文部省訓令第12号や私立学校令により,キリスト教学校の宗教教育や礼拝が禁止された。これによりキリスト教界は大きな打撃を受けたが,一方,問題の対処のために基督教教育同盟会の結成(1910年)へとつながった。以後キリスト教学校は時々に変化する政府の文教政策との対峙,対応のために協力,団結しながら今日に至っている。

 キリスト教高等教育機関の必要に関しては,日本開教50年記念会(1909年)で決議され,日本におけるクリスチャン・リーダーの養成の目的で,合同キリスト教大学設立の機運が盛り上がった。エディンバラ世界宣教会議(1910年)でも,アジアにキリスト教主義高等教育機関設立の必要が認識されたものの,実際には各教派の男子校同士の一致に至らず,実現は困難であった。一方,女子の場合は,各教派の宣教師たちが創立した女学校間の協力が実り,1918年(大正7)に東京女子大学の創立に至った。このほか,キリスト者の津田梅子(1864-1929)による女子英学塾(1900年,津田塾大学の前身)と成瀬仁蔵による日本女子大学校(1901年,日本女子大学の前身)の設立は,キリスト者による女子高等教育の先駆である。

 プロテスタント各派設立の男子校で,1918年の大学令により大学とされたのは同志社,立教,関西学院で,ほかは専門学校の範疇であった。私立大学としてのキリスト教主義大学は国公立大学とは異なり,財政的に苦闘を強いられつつも,それぞれ特色を活かして発展した。1930年代の世界的不況と40年代の戦時下においてキリスト教学校は海外宣教団体から自立する一方,国民儀礼に合わせつつ戦争協力(勤労奉仕,学徒動員など)を余儀なくされて困難な時代を生き延びた。

 第2次大戦後の新学制により,1948年(昭和23)に同志社,立教,関西学院,神戸女学院,青山学院,東京女子大学,金城学院が新制大学とされ,翌年には明治学院,関東学院,宮城学院,東北学院,西南学院,広島女学院などが加わり,東京神学専門学校,同志社女子専門学校は新制大学に昇格した。また,国際基督教大学が超教派の大学として1949年に新たに設立されたことは,合同大学の実現として重要である。戦後,多くの短期大学が設立されたが,のちに4年制大学へと改組した学校が多い中,特色を活かし短期大学として引き続き使命を担う学校もある。なお,先述の基督教教育同盟会は,現在,一般社団法人キリスト教学校教育同盟としてキリスト教大学共通の課題に取り組んでいる。2017年5月1日現在,所属する大学は56校(うち女子大学17校),学生数は男女合わせて23万4600人,短期大学・短期大学部は23校(うち女子校10校),学生数は男女合わせて8800人である。キリスト教主義大学が抱える今日の課題は,キリスト教基盤を明確にしつつ,多数を占める非キリスト者教職員と協力して,どのように特色ある人格教育・専門教育を提供していくかであろう。
著者: 棚村惠子

[カトリック]◎佐々木慶照『日本のカトリック学校のあゆみ』聖母の騎士社,2010.

[プロテスタント]◎キリスト教学校教育同盟百年史編纂委員会編『キリスト教学校教育同盟百年史』教文館,2012.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報