インド海軍の反乱(読み)いんどかいぐんのはんらん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インド海軍の反乱」の意味・わかりやすい解説

インド海軍の反乱
いんどかいぐんのはんらん

1946年2月、アラビア海に面するボンベイ(現ムンバイ)のイギリス海軍の基地タルワール(剣)のインド水兵が、イギリス人将校による人種差別と不当な待遇に抗議して起こした反乱。第二次世界大戦の終結はイギリスからの独立を目ざすインドの大衆運動を、従来から区別される新しい段階に導いたが、こうしたなかで46年2月18日、ハンガーストライキを開始した水兵らは、翌日、ストライキ委員会を組織し、反乱兵は2万人に達した。委員会は、経済的な要求のみならず、外国からのインド軍の撤退、ヒンドゥー・ムスリム統一、インドの独立といった政治的な諸要求を掲げた。反乱はボンベイ以外の地にも波及する一方、22日には20万のボンベイの労働者が同情ストに突入する新事態が発生した。イギリス側は同情デモ隊に発砲して数百人の死傷者を出した。水兵は艦上マストにインド国民会議派、ムスリム連盟共産党の旗を掲げ、インドの統一を訴えたが、翌日、会議派の調停もあり、ストは中止された。海軍のこうした反乱はイギリスのインド統治史上で前例のないことであり、イギリス当局は急ぎ反乱発生の翌日、局面打開のための使節団をインドに派遣することを発表した。いずれにせよ、この反乱は、当時インドが革命的情勢を迎えている事実を明示した。

[中村平治]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インド海軍の反乱」の意味・わかりやすい解説

インド海軍の反乱
インドかいぐんのはんらん

1946年2月ボンベイのイギリス海軍基地で起こったインド人水兵反乱事件の通称。2月 18日基地のインド人水兵が粗悪な食事への不満をきっかけに,イギリス人将校による人種差別に抗議してハンガー・ストライキを決行。翌 19日にはストライキは陸上の 12の施設と 20隻をこえる艦艇のインド人水兵2万人に広がった。そのなかにはヒンドゥー教徒だけでなく,イスラム教徒シク教徒も含まれていた。中央ストライキ委員会が組織されて,待遇改善,動員解除などのほか,政治犯釈放インドネシアからのイギリス人麾下のインド人部隊の撤退,インドの独立といった要求をまとめた。イギリスは陸軍部隊を導入し,2月 21日から 22日にかけて陸上基地と艦艇の間で砲火が交えられ,22日にはボンベイの労働者 20万人が同情ストに入り,反乱は各地に波及した。しかしインド国民会議派のサルダール・パテールとムスリム連盟のムハンマド・アリー・ジンナーの要請で,反乱兵は 23日にストライキを停止。事件は,軍隊の力に頼るイギリスの植民地支配の自信をくじき,インド撤退を早めさせる要因の一つになった。イギリスのクレメント・R・アトリー首相は 19日反乱の最中に,権力委譲交渉のための内閣使節団のインドへの派遣を発表した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「インド海軍の反乱」の解説

インド海軍の反乱(インドかいぐんのはんらん)
RIN (Royal Indian Navy) Mutiny

1946年2月,インド海軍の水兵が起こした反乱。きっかけはボンベイの水兵のストライキだった。彼らは海軍中央ストライキ委員会を選出し,食事の改善,賃金の人種差別の撤廃,政治犯の釈放,インド軍のインドネシアからの撤退などの要求を掲げた。憲兵隊との戦闘が始まると,ボンベイ市民が水兵に連帯し,反乱は78隻の艦艇と2万人の水兵に広がった。しかし国民会議派ムスリム連盟の支持を得ることができず,降伏した。イギリスにインドからの撤退を決意させる大きな原因になったといわれる。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報