お由羅騒動(読み)おゆらそうどう

改訂新版 世界大百科事典 「お由羅騒動」の意味・わかりやすい解説

お由羅騒動 (おゆらそうどう)

江戸後期の島津家の継嗣をめぐる紛争。二十数年にわたる天保の藩政改革に人心はうみ,また1844年(弘化1)以来の英米仏による薩摩藩属領琉球への開国強請に危機感がみなぎっていた。48年(嘉永1)には世子斉彬(なりあきら)は40歳の壮齢であったが,斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興や家老調所(ずしよ)広郷の考えでは〈斉彬の世になれば曾祖父重豪(しげひで)にならって,蘭癖のため藩庫をからにするであろう〉と,藩の前途を危ぶんでいたのである。世評では,側室お由羅が調所らと結んで自分の腹の久光を立てようとしている,斉彬の7人の子女が次々と夭折したのはお由羅の呪詛によるものだと,取りざたした。激高した町奉行近藤隆左衛門,船奉行高崎温恭,同山田清安が首謀者となり,由羅や久光を暗殺しようと企てたが,事は未然に漏れて49年12月から翌春にかけて大疑獄がおこり,首謀の3人は磔刑・鋸引,一味の50余人も切腹・遠島・謹慎の刑に処せられた。しかし井上経徳ら4人が脱走して重豪の四男福岡藩主の黒田斉溥(なりひろ)に訴えたので,斉溥は兄の中津藩主奥平昌高,弟の八戸藩主南部信順と謀り,斉彬と親しい宇和島藩主伊達宗城(むねなり)を通じて老中阿部正弘に円満な処置を頼んだ。正弘は斉彬の外交手腕に深く期待していて好意的であったから,斉興に隠居内諭を下し,翌51年2月には斉彬の家督相続が実現した。本事件は中心人物の名にちなんでお由羅騒動あるいは高崎崩れというが,幕末のけわしい時局が生んだ政争であった。
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百科事典マイペディア 「お由羅騒動」の意味・わかりやすい解説

お由羅騒動【おゆらそうどう】

幕末に起きた鹿児島藩御家騒動。嘉永朋党(かえいほうとう)事件・高崎崩れとも。側用人調所広郷を抜擢して藩財政を立て直した鹿児島藩は,1844年には50万両を備蓄するまでに至った。この頃藩主島津斉興の後継に世子島津斉彬擁立する一派と,斉彬が藩主となれば再び藩財政は悪化すると危惧する調所広郷一派が対立。調所派は斉彬の異母弟島津久光(側室お由羅の子)の擁立を図り,お由羅と結んだ。斉彬擁立派は調所広郷を密貿易露顕一件で自殺させたが,藩実権は依然として調所派が握っていた。斉彬擁立派はさらに久光とお由羅の暗殺を画策,これが藩主斉興に露顕,首謀者の高崎五郎右衛門温恭らは切腹,ほか四十数名も死罪・遠島などに処せられた。この嘉永2年−3年(1849年−1850年)の事件で,斉興は隠居,幕府老中阿部正弘らの画策で翌嘉永4年(1851年)島津斉彬が藩主となった。

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