精選版 日本国語大辞典 「島津久光」の意味・読み・例文・類語
しまづ‐ひさみつ【島津久光】
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幕末・明治初期の政治家。文化(ぶんか)14年10月24日、薩摩(さつま)島津氏27代当主斉興(なりおき)の三男に生まれた。母は側室お由良(ゆら)。山城(やましろ)、周防(すおう)、和泉(いずみ)、三郎などと称した。一門重富(しげとみ)島津家を嗣(つ)ぐ。1858年(安政5)長男茂久(もちひさ)(のち忠義(ただよし)と改名)が29代当主となったので、久光が藩政の実権を握った。1861年(文久1)宗家に復帰、1862年朝廷(公)と幕府(武)との政治的対立を調停して開国後の内外危機に対応できる体制を造出する目的で公武合体運動に着手、勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を擁して幕政改革を実現し一躍名声をあげた。その間、藩内尊攘(そんじょう)激派を弾圧(寺田屋事件)。幕末政局には反幕諸侯グループのリーダーとして活躍した。1862年には久光の行列をめぐる生麦(なまむぎ)事件が発生、薩英戦争に発展した。維新後は旧公家(くげ)・大名勢力の中心的存在となり、1873年(明治6)内閣顧問、1874年左大臣となったが1875年辞任。以後、修史の業に従事し、1884年公爵。明治20年12月6日病死し国葬となった。
[毛利敏彦]
『日本史籍協会編『島津久光公実紀』全3巻(2000・東京大学出版会)』▽『町田明広著『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ)』
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(長井純市)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
幕末の薩摩藩主忠義の実父。父は斉興(なりおき),母は側室お由羅。1858年(安政5)兄斉彬(なりあきら)の遺命で忠義が襲封すると後見となり,藩政の実権を握る。62年(文久2)大兵を率いて上京し,斉彬の遺志を継ぎ公武合体運動を展開。有馬新七ら尊攘派を鎮圧し(寺田屋事件),勅使大原重徳を奉じて江戸に下り,幕政改革を求め成功した。帰途生麦事件が起こり,翌年7月薩英戦争となった。文久3年8月18日の政変には会津と結んで長州藩,尊攘派公家を朝廷から追放し,朝議参与となり公武合体の政治を遂行しようとして失敗。すでに時勢は倒幕の方向へ急転回していたので,以後の禁門の変,第1次・第2次長州征伐には西郷隆盛,大久保利通らに政局をゆだねた。維新後は新政府の諸改革に不満で,73年西郷の下野後に内閣顧問や左大臣に任ぜられたが,保守的意見がいれられず75年帰国,隠退した。
執筆者:原口 虎雄
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1817.10.24~87.12.6
幕末期の薩摩国鹿児島藩主忠義の実父。父は斉興。1858年(安政5)兄斉彬(なりあきら)の遺命で子忠義が相続し,のち国父として藩政の実権を掌握。大久保利通を信任し,藩内の動揺を収めた。斉彬の遺志を継いで,公武合体周旋のため62年(文久2)率兵して入京し,寺田屋騒動では藩内過激派を弾圧。勅使大原重徳(しげとみ)を擁して出府し,幕政改革を実行させた。帰途生麦事件が発生し,薩英戦争をひきおこした。63年の8月18日の政変後は京都で国事周旋に尽力するが,徳川慶喜(よしのぶ)と意見があわず帰国,後事を西郷隆盛に託した。71年(明治4)の廃藩置県を不本意として鹿児島にとどまる。74年左大臣。76年帰国・隠退し,西南戦争では中立を守った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸後期の島津家の継嗣をめぐる紛争。二十数年にわたる天保の藩政改革に人心はうみ,また1844年(弘化1)以来の英米仏による薩摩藩属領琉球への開国強請に危機感がみなぎっていた。48年(嘉永1)には世子斉彬(なりあきら)は40歳の壮齢であったが,斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興や家老調所(ずしよ)広郷の考えでは〈斉彬の世になれば曾祖父重豪(しげひで)にならって,蘭癖のため藩庫をからにするであろう〉と,藩の前途を危ぶんでいたのである。…
…当時の尊攘派の理論的リーダーであった真木和泉をはじめ,平野国臣,清川八郎,田中河内介,有馬新七,田中謙助らが代表的な志士であった。同年3月,尊攘派の声望の高かった島津久光が,兵を率いて京都へ入った。しかし彼は,幕政改革を通じて幕府を攘夷へ向かわせようという立場であったので,急進的な攘夷には反対し,尊攘挙兵を企てた有馬らを,4月,伏見の寺田屋で斬った。…
…1862年(文久2)4月23日,京都伏見の船宿寺田屋で尊攘激派志士が鎮圧された事件。薩摩藩主の父にあたる島津久光は幕府と長州藩による公武合体策の失敗後,雄藩連合による公武合体たて直しをめざして上京した。薩摩藩士有馬新七,田中謙助,大山巌,西郷従道,三島通庸らと浪士の清川八郎,田中河内介,真木和泉らは,これを機会とみて京都に集まり,佐幕派の関白九条尚忠,所司代酒井忠義殺害の計画を立てた。…
※「島津久光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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