洛陽(読み)ラクヨウ(英語表記)Luò yáng

デジタル大辞泉 「洛陽」の意味・読み・例文・類語

らくよう〔ラクヤウ〕【洛陽】

中国河南省北西部の都市。洛河北岸にある。西周時代に都として建設され洛邑らくゆうとよばれ、代に改称、北魏後梁後唐などの首都。代には長安に対して東都とよばれ、経済・文化の中心として繁栄した。現在は機械製造が盛ん。白馬寺竜門石窟など古跡が多い。人口、行政区149万(2000)。ルオヤン
京都の異称。
平安京左京の異称。右京を「長安」というのに対する。

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改訂新版 世界大百科事典 「洛陽」の意味・わかりやすい解説

洛陽 (らくよう)
Luò yáng

中国,河南省北西部の都市。1948年市制。人口約154万(2003)。省都鄭州市の西124kmにある。黄河の黄土高原から華北平野へのほぼ出口に当たり,古来より交通上の要衝で,現在も東西幹線鉄道の隴海(ろうかい)線(連雲港~蘭州)が通じている。黄河支流の洛水北岸に位置するため,この名がある。すぐ北を黄河が東流するが,洛陽との間に丘陵状の邙山(ぼうざん)が東西にのび,黄河それ自体のはんらんの被害は及ばないという地の利もあり,新石器時代から殷代にわたる遺跡が付近に多数存在する。新石器時代の竜山文化晩期から殷代中期にわたる重層遺跡が発見され,そのⅢ期層の王宮址は殷代前期に比定されている偃師(えんし)県二里頭遺跡は,洛陽のわずか東,黄河と洛水の合流点にあり,1982年には殷の初代湯王の都城ではないかとされる城壁址も当地から出土した。このように,洛陽付近は有史以来の中国文明の一大中心であることが,近年の考古学調査によって実証されつつある。それは,古代中国人がこの地を世界の中心と意識し,中土,中国,中原などと呼称したことを裏づけるもので,東周以後〈九朝古都〉となるのも由なしとしない。

この地に都城が築かれるのは,前11世紀,西周初めの成王のときで,旧殷の勢力圏である東方経営の拠点で,〈王城(洛邑)〉と呼ばれた。現洛陽市街西部で発見された東周期と漢代の河南県城址は,王城の上に築かれた可能性が強い。前770年,犬戎(けんじゆう)に追われて平王が陝西の鎬京こうけい)(西安南西郊)からこの地に遷都し,戦国末の前256年に秦に滅ぼされるまで,東周の国都として存続した。秦代には三川郡の治所,前漢代には河南県の治所が王城の地に,雒陽県(漢は火徳を標榜して水を忌み,洛字を改めた)の治所が周の下都(成周)の地に置かれた。後漢では後25年(建武1)再び雒陽が国都に定められ,南北9里東西6里の城郭規模を有したので九六城と称せられた。中国最初の仏寺といわれる白馬寺は,後漢の初めに九六城の西郊に建立された。三国の魏,西晋もともに洛陽を国都とした。北中国の五胡十六国を統一した北魏は,孝文帝のときに漢化政策の一環として,山西北部の平城から洛陽に遷都した(494)。伝統的に中国中央と意識される地に都することで,王朝の正統性を主張したのである。次帝宣武帝は洛陽九六城を内城として,東西20里,南北15里の広大な外城を築いた(501)。楊衒之の《洛陽伽藍記》は,当時の戸数を11万戸,寺院数を1367と伝え,政治,風俗,地理,さらに多数の周辺諸民族の居住区などについて記している。しかし,この繁栄も北魏末の兵乱の結果,わずか40年ほどで完全に荒廃してしまう。

 隋の統一後,2代煬帝(ようだい)は荒廃した北魏洛陽城の西15kmの地に大規模な新城を築き,天下の大商人数万戸を強制移住させ,西都大興城(唐の長安城)に対して東都とした(605)。次いで唐の則天武后期に外城が築かれ,都城としての形が整備された。隋・唐の洛陽城の平面プランは1954,60年の考古学調査で基本的にその全体像が明らかとなった。それによると,外郭は洛水をはさんだ形で,東壁が7312m,西壁が6776m,南壁が7290m,北壁が6038mの規模で,西壁のみは直線状をなしていない。宮城,皇城は洛水の北,都城全体の北西部に置かれ,都城中央の北部に置かれた左右対称のプランである長安城とは異なる。宮城正南門の応天門,皇城正南門の端門,洛水を南北にまたぐ天津橋,外郭正南門の定鼎門は一直線上にあり,さらに南への延長線上に竜門石窟のある伊闕が位置することから,当初には,大興城と同じプランが予定されていたと思われ,地形上の問題,特に洛水のはんらんしやすい西部を避けて変更された結果が,このような変形プランとなったと考えられる。

 唐代の洛陽も東京として大いに繁栄したが,西京長安が主として政治的中心であるのに対し,洛陽は則天武后期に神都と改称して事実上の国都とされるのを除き,経済都市としての性格が強かった。それは運河と黄河の交点に近く,江南の諸物資がここに集積され,さらに西の長安に転送される最も重要な基地という立地によるものである。1971年,宮城北東の地で発見された含嘉倉城は,そのことを如実に物語る。これは東西600m,南北700mの城壁で囲まれた巨大な穀物窖(こう)群で,直径15m,深さ20m規模の防水処理された穴蔵が400以上確認された。穴蔵中より出土した塼(せん)刻銘で,穀物の多くが江淮(こうわい)地方から運河経由でここに輸送されたことが判明した。城内は25条の大街で113坊と3市に区画され,城内人口は100万に近かったといわれる。貴族,高級官僚の邸宅や別邸が多く,それらに付属するものを含めて,1000を超える名園が城内外にあり,天下に名の聞こえた洛陽の牡丹が咲き乱れていた。しかし,安史の乱後は,さしもの洛陽の繁栄も衰退に向かった。唐末の軍閥抗争で,その住民は100戸にも満たないほどに激減した。

 五代後梁は汴州(べんしゆう)開封府を東京,洛陽を陪都西京とし,後唐は首都とするが,もはや隋唐洛陽城の壮大な規模には比すべくもなかった。このように,五代以後は運河の要衝,開封府が政治,経済の中心となり,洛陽の地位は著しく低下する。宋代に西京河南府とされはするが,東京開封府の規模,繁栄には遠く及ばない地方都市でしかなかった。ただし,宋代の科挙官僚で洛陽出身者はかなり多く,洛党という政治的党派を形成して一定の影響力を行使したことは注目される。洛党は,宋学の基礎を築いた程頤(ていい)(伊川)を首とし,彼の門下からなっていた。金代には金昌府,元代には河南路,明・清代には河南府の治所となるが,一地方都市の域を出るものではなかった。現洛陽市城(老城)は,約1.5km四方の小さなもので,金代の城壁をもとに明代に築かれたものだが,北壁の一部を除き,ほとんど残っていない。現洛陽市街は老城から西にのびる中州路に沿って大きく発展し,鄭州とともに河南省の二大工業都市となっている。また,唐三彩の精巧な複製は,内外に著名である。

 洛陽の北にあって東西に丘陵状にのびる邙山は,全体が黄土の台地で,古来,洛陽攻防の要地となったが,高級墓葬地としてより著名である。洛陽に都した歴代の帝陵をはじめ,多数の墓がおかれた。後漢,西晋,北魏の諸陵の多くがここにあり,また,漢・魏以来のきわめて多数の墓誌銘や明器類が出土しているが,隋・唐期のものが過半を占める。1949年以前に盗掘された古墓は10万に近いと推定され,49年以後だけでも4000に近い墓誌銘が出土している。洛陽の南13kmの竜門石窟は,敦煌,雲岡と合わせて三大石窟と呼ばれる規模の大きなものである。北魏の洛陽遷都前後に開削が始まり,唐代に最盛期を迎え,北宋代にまで及ぶ,2000以上の石窟,仏龕(ぶつがん)が存在する。竜門西山から伊河をへだてて対岸の東山には,白居易が長年住した香山寺と彼の墓所がある。洛陽と竜門のほぼ中間にある関林は,三国蜀の名将関羽の墓所と伝えられる地で,全国に多数存在する関帝廟の中でも最大級の規模をもつものである。81年,関林内に設けられた洛陽博物館分室の石刻芸術と碑刻墓誌の2陳列室は,邙山出土のものを集め,陝西省博物館の西安碑林とともに,隋唐研究者には必見の地である。
長安 →都城
執筆者:

洛陽市のある河南省北西部には,〈夏〉の伝承にまつわる地名が多く,竜山文化中・後期から殷前期にかけての夏代に相応する遺跡も多い。そのような遺跡の例としては,洛陽市東馬溝遺跡,矬李(さり)遺跡,王湾遺跡などが知られている。また,洛陽市の中央を東西に走る中州路では,道路工事に伴う発掘で,殷前期の標準的な遺物が出土している。しかし,洛陽が歴史的,考古学的にきわめて重要な意味をもつのは,西周の成王の時代からである。文献史料によれば,西周の都は西安市南西部の鎬京に存在したが,成王のときに東方経営の拠点として,東都の洛邑(洛陽)が建設され,洛邑には〈成周〉と〈王城〉の二つの都市がつくられたという。前771年に幽王が殺され西周王朝は滅亡するが,翌年幽王の子,平王は洛邑にあった〈王城〉に移り,ここを東周城とし,周王の位についた。平王の東遷後,前256年の周の滅亡まで,一時周の都が〈成周〉に移ることもあったが,〈王城〉の地は,東周城として戦国時代末年まで機能していたと推定される。西周の〈王城〉の位置は,漢代の河南県城に重なると調査報告されており,現在の洛陽市の西方,澗河の東岸に位置している。

 洛陽市の北東郊の龐家溝(ほうかこう)遺跡では西周墓群が発見され多数の青銅器灰釉陶器が発見され,また1975-79年の北窯村の調査では,大規模な西周鋳銅遺跡とそれに伴う多数の陶笵,溶銅炉壁が発見された。これら西周の龐家溝遺跡や北窯鋳銅遺跡は,〈成周〉および〈王城〉近郊に残る西周遺跡として注目されている。

 洛陽市の西方,澗河の東岸の七里河,瞿家屯(くかとん),西池,東池,金谷園の一帯には,漢の河南県城を取り囲んで東周時代の古城が存在する。この古城は,地理的位置と遺構の年代から,平王が東遷によって移った〈王城〉の地に築かれた東周城と考えられている。この古城の大きさは,北城壁2890m,東城壁残存部分約800m,南城壁残存部分約840m,西城壁残存部分約1950mで,築造時の城は,一辺2800~3900m内外の大きさであったと推定される。この城址からは,春秋時代と考えられる鬲(れき),盆,缶(かん),豆(とう)や戦国時代の瓦が出土している。

 この東周城を東西に貫く中州路の道路工事が行われ,1954,55年に工事に伴う発掘調査が行われた。この中州路の調査では260基の東周墓が発掘された。これらの墓の多くは竪穴墓であったが,小数の洞室墓も存在し,その年代は,春秋前・中期から戦国の末年におよんでいる。中州路の発掘では,墓の副葬品のほかに多くの東周時代の半瓦当が出土し,これらの副葬品や半瓦当は,東周時代の中原の文物を研究するうえでの基準的遺物となっている。中州路の東周墓のほか,1953年には焼溝村で59基の戦国墓が,また72年には小屯村の南東で戦国時代の車馬坑が発見されるなど,東周城(王城)と関連すると思われる諸遺構の発見も多い。しかしながら,西周の〈成周〉とそれを引き継ぐ東周時代の遺跡の位置は考古学的に不明である。ただ一般的な説として,〈成周〉の位置を,洛陽市の東方15kmに存在する漢魏洛陽城の地に比定する考えが有力である。
執筆者:

前漢代におかれた河南県城は1954,55年の調査によって,東周王城の城址に築かれたことが明らかとなったが,規模は約4分の1にすぎない。この河南県城址をほぼ東西に貫く中州路建設に伴う調査のうち,鼎(てい),盒(ごう),壺の副葬土器の組合せをもつ東周第7期が戦国末・秦代に相当する。また焼溝墓群中の戦国墓にも同時期のものがある。洛陽における漢代墓のうち最もまとまったものもこの焼溝墓群で,洛陽旧城の西1.5kmの邙山麓に広がり,墓域の東から西へかけて,戦国時代から後漢後期にいたる多数の墓が整然と営まれている。これらの墓は後漢末の数基の大型墓を除き,墓の規模はほぼ一定しており,漢代の一般地方官吏とその眷属(けんぞく)のものと見られる。漢代墓は墓の構造と副葬品の組合せから,前漢中葉より後漢末に至る6期に編年され,漢代編年の基準資料である。焼溝I期の前漢中葉墓はなお鼎,盒,壺の土器を副葬し,戦国~秦代の伝統礼制を色濃く残している(洛陽焼溝古墓群)。焼溝と洛陽老城の間では1957年,前漢後期の壁画墓が発見された。いま王城公園内に移築保存されているが,主室天井に日月星辰,隔牆の横梁に〈二桃殺三士〉,後室後壁に〈鴻門之会〉の故事を描く。76年に焼溝村の西方で発見された卜千秋墓には天井部に〈昇仙図〉が描かれていた。

 東周以来,洛陽が2度目の帝都となったのは後25年(建武1),後漢王朝の成立によってである。洛陽市東方15kmの前漢時代の雒陽城を修築して帝都とした。いま漢魏洛陽城と呼ばれるものがそれである。規模は当時の里程で南北9里,東西6里あり,〈九六城〉と呼ばれた。城中の宮殿は光武帝により南宮が,明帝により北宮が築かれ,とりわけ北宮の徳陽宮は広大で1万人を入れ,陛の高さ2丈であったという。城門は12門,城内北東隅に太倉と武庫,西城壁中央部に金市があった。城外南郊には明堂,辟雍をはさんで西に天文をつかさどる霊台,東に儒教講学の中心である太学があり,太学には蔡邕(さいよう)の熹平石経がおかれた。これら遺跡のうちには天文観測にあたった霊台が発掘されている。霊台の中心建物は上下2層で上層四方に5間の建物があり,四神を示すことが明らかとされた。

 城外南西郊の土崗上に522基の土壙墓が密集していたが,出土の文字塼によって,この墓群は107年(永初1)から121年(永寧2)の間に帝都での労役で死亡した刑徒の墓地であることが判明した。洛陽市東関の塼室墓には墓門の上に犬,さらに上方に10人の殉葬者をもった特殊な殉人墓が発見されている。焼溝のほか,洛陽城西の金谷園,澗河の西の七里河にも多数の漢墓が発見されている。これらの墓には前漢代後半期から副葬品の急速な充実が認められる。後漢王朝は地方豪族層を基盤として成立したが,これら前漢後期墓は豪族層の発達の様相をうかがわせるものである。後漢代には墓中の副葬品はいよいよ多彩豊富となる。穀物や飲料の名称を墨書した壺や倉庫の模型が多数副葬されるほか,百戯(サーカスの類)や奏楽,舞踊のが見られ,豪族層の豪奢な日常生活の様相を示している。

 後漢に続き曹魏・西晋もこの地を都とし,特に曹魏は北西隅に金墉城を築いた。晋末永嘉の乱の後,洛陽は一時廃墟となったが,北魏の孝文帝のときふたたび都となった。城垣は漢のものを引き継いだが,宮城はもとの北宮の位置に小規模に造られ,新たに1門を開き,城内道路も大幅に改めた。さらに城垣外に東西20里,南北15里の東西に長い外郭城を設け,大市,小市,四通市を西・東・南に配し居民区とした。この北魏の都城制は漢代以来の〈面朝後市〉の都城配置を大幅に改めたもので,隋・唐以降の都城制に大きな影響を与えた。北魏の建築では洛陽城中で最も著名であった永寧寺の9層塔基が発掘され,38.2m四方の基壇と5重の柱列が明らかとされている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「洛陽」の意味・わかりやすい解説

洛陽
らくよう / ルオヤン

中国、河南(かなん)省北西部の地級市。崤山(こうざん)山脈の北邙(ほくぼう)山や熊耳(ゆうじ)山脈に囲まれ、黄河(こうが)の支流洛河(南洛河)の河谷盆地にある。市街行政区は老城(ろうじょう)、西工(せいこう)などの6市轄区に分かれ、ほかに孟津(もうしん)、新安(しんあん)など8県を管轄下に置き、偃師(えんし)市の管轄代行を行う(2016年時点)。人口696万2000(2014)。

 1948年、洛陽県の市街部に市制が敷かれ、洛陽市が成立。市街は、東部の金(きん)代以来の旧市街地である「老城」と、中華人民共和国成立後に発展した西部の新市街部からなる。70余万平方メートルの広さをもつ中国有数の洛陽(東方紅)トラクター工場をはじめ、軸受、鉱山機械、ガラス、綿紡織などの近代工業が発達している。市外の農村部では小麦、トウモロコシ、大豆、ワタを産出する。とくにワタは揚子江(ようすこう)デルタや江漢平原に次いで高い単位当りの生産高を誇っている。洛陽東駅では隴海(ろうかい)線と焦柳線(焦作(しょうさく)―柳州(りゅうしゅう))が交差するほか、市内を鄭西旅客専用線(鄭州(ていしゅう)―西安(せいあん))が通り、省内の各都市と城際(都市間)鉄道で結ばれるなど、河南省西部の交通の拠点ともなっている。

 北京(ペキン)、西安、開封(かいほう)などとともに中国六大古都の一つで、市内には竜門石窟(せっくつ)や中国仏教の発祥地と伝えられる白馬寺、三国時代の英傑関羽(かんう)の墓のある関林、各時代の故城などの古跡が数多く残っている。

[駒井正一・編集部 2017年12月12日]

歴史

中国古代史の主要な舞台となった中原(ちゅうげん)と関中平原とを結ぶ交通の要衝に位置し、西周時代の洛邑(らくゆう)以来、政治や文化の一中心として栄えた。洛陽の地は、南は洛河に臨み、北は邙山を控えた小平野で、邙山の北には黄河本流が西から東へ流れている。

 初めてここを国都としたのは東周で、その後、後漢(ごかん)、魏(ぎ)、西晋(せいしん)もここに都を定めた。北魏もまた大同(だいどう)から都をこの地に移し、さらに隋(ずい)・唐時代には西都長安に対する東都として繁栄した。このあと、五代十国の後唐(こうとう)や後の中華民国も一時洛陽を都としたので、九朝の都とよばれている。

 東周洛陽城は、現市街地西方の一角に位置し、漢魏洛陽城は東郊に、それぞれ遺跡を残している。57年、倭(わ)の奴国(なこく)王は後漢に使者を送り、光武帝から印綬(いんじゅ)を賜ったという記録が『後漢書(ごかんじょ)』に記載されているが、倭の使者が皇帝に謁見したのはこの漢魏洛陽城であり、古代日中交流史にとって重要な遺跡である。

 北魏は493年に都を洛陽に移したが、この北魏洛陽城は前代の都城を四周に広げ、東西約9キロメートル、南北約7キロメートルの規模とした。ここには11万人が住み、仏寺は1367を数えたと記録されているが、北魏末には兵火に焼かれ壊滅した。隋・唐時代には、ふたたび漢魏洛陽城の西方の地に大規模な都城を建設し、江南や華北の物資がここに集積され、大いに栄えた。先年発掘された含嘉倉(がんかそう)は、唐の地下穀倉群であり、400余基に上る巨大な穴倉(あなぐら)が発見されている。

 洛陽は、中国古代文化の中心地でもあり、漢代には史家の班固(はんこ)、紙の発明者蔡倫(さいりん)、名医華佗(かだ)などが活躍し、唐代には李白(りはく)、杜甫(とほ)、白居易(白楽天)がここで多くの名詩を残した。洛陽には、中国最古の仏寺といわれる白馬寺や、南郊には北魏に始まる竜門石窟があり、仏教の一中心地でもあった。後唐以後、洛陽は一地方都市として衰微の一途をたどったが、中華人民共和国の建国によって再生し、近代都市として発展しつつある。

[田辺昭三 2017年12月12日]

世界遺産の登録

竜門石窟が2000年に世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録されたほか、2014年には後漢北魏洛陽城、隋唐洛陽城定鼎門(ていていもん)が「シルク・ロード:長安‐天山(てんざん)回廊の交易路網」の構成資産として、また含嘉倉遺跡、回洛倉(かいらくそう)遺跡が「中国大運河」の構成資産として、世界文化遺産に登録されている。

[編集部 2017年12月12日]

『西嶋定生編『奈良・平安の都と長安』(1983・小学館)』


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百科事典マイペディア 「洛陽」の意味・わかりやすい解説

洛陽【らくよう】

中国,河南省北西部の都市。黄河の支流洛水に臨む。華北平原と渭水盆地を結ぶ要地で,隴海(ろうかい)(連雲港〜蘭州)・焦柳(焦作〜柳州)両鉄路の交差点。河南省では鄭州と並んで大工業都市で,トラクター,鉱山機械,紡織などの工業がある。付近は綿花の産が多く,石炭・金属資源にも富む。長安と並び古くから国都の置かれた地で,前11世紀,周の成王が都を営み,以後,後漢・曹魏・西晋・北魏・後唐の都となった。特に北魏の時代には民戸11万を数え,1367寺が建設され繁栄をきわめた。現在も白馬寺,南門外の天津橋,南方13kmの竜門石窟など名勝史跡に富む。196万人(2014)。
→関連項目洛陽伽藍記

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「洛陽」の解説

洛陽(らくよう)

東周,後漢,三国魏,西晋,北魏,武周(則天武后)などの古代王朝の都。周の時代には東西に10km隔てて二つの洛陽が築かれたといわれている。周公旦(しゅうこうたん)が築き平王以降に東周の王の居所となった東周王城と,その東に西周成王が築き殷(いん)民を居住させた洛邑(らくゆう)(成周)とがある。黄河中流の支流洛河(らくが)の北(陰陽の陽)につくられたので洛陽と呼ばれた。後漢は東周城を河南城として残し,その東に洛陽城を築いて都とした。漢魏洛陽城と呼ばれ,北魏の都,隋唐の副都として引き継がれていく。後漢の洛陽城は南北9里,東西6里の長方形で九六城と呼ばれ,北宮と南宮が分散していたが,北魏の洛陽城では宮城が北に寄り,その南に官庁街が整然と並んだ。戦国や後漢の時代には「雒陽」という字を使った。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「洛陽」の解説

洛陽
らくよう
Luòyáng

中国の河南省北西部,洛水北岸の都市
周初期の前11世紀ごろ,周公が東方の根拠地として洛邑 (らくゆう) を建てたのに始まる。前720年に平王がここに遷都して以来,東周の都となった。漢代以後,洛陽と呼ばれ,後漢 (ごかん) ,三国時代の魏,西晋 (せいしん) ,北魏の首都となった。北魏末期から一時衰えるが,隋は都の大興(長安)とともにここに副都を建設して東都と呼び,交通・経済の中心とした。唐もこれをついだが,安史の乱以後はしだいに衰微にむかい,以後,一地方都市となった。

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世界大百科事典(旧版)内の洛陽の言及

【河南[省]】より

…中国の古代地理書である〈禹貢〉(《書経》の中の一編)には九州の一つとして予州とみえ,ほぼ天下の中央に相当するので中州または中原ともよばれた。もともと河南とは黄河の南岸に近い洛陽地方を意味し,中国文化発生地の一つである。古くから宋代まで全中国の政治・経済・文化の中心で,中原を制圧するものは天下を支配することができると信ぜられた。…

【河南[省]】より

…中国の古代地理書である〈禹貢〉(《書経》の中の一編)には九州の一つとして予州とみえ,ほぼ天下の中央に相当するので中州または中原ともよばれた。もともと河南とは黄河の南岸に近い洛陽地方を意味し,中国文化発生地の一つである。古くから宋代まで全中国の政治・経済・文化の中心で,中原を制圧するものは天下を支配することができると信ぜられた。…

【大運河】より

…これが隋代の江南河のもとである。その後,東晋の桓温,宋の劉裕の北伐のときには,淮河,泗水を経て済水(清水)をさかのぼって黄河に入り洛陽に達した。劉裕はさらに長安まで行ったのであるが,その帰途は洛水から黄河に入り,汴渠を開いて泗水,淮河を経由し長江に到達したのである。…

【都城】より

…中国で最初の統一王朝を建国した秦の始皇帝は,長安(現,西安)の北西にあたる咸陽城を拡張して統一帝国の首都にふさわしい大都城としたが,秦の滅亡の際にすっかり焼き払われた。前漢は長安に,後漢は洛陽にそれぞれ都城をおいて以後,これら長安と洛陽は,しばしば後の王朝の首都あるいは副都となった。すなわち長安は五胡十六国時代の前趙,夏,前秦,後秦と西魏,北周,隋,唐の各王朝の首都であり,洛陽は三国の魏,西晋,北魏,後唐の首都で,隋と唐の副都とされた。…

※「洛陽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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