黒崎湊(読み)くろさきみなと

日本歴史地名大系 「黒崎湊」の解説

黒崎湊
くろさきみなと

洞海どうかい湾に突き出したしろ山の西麓に形成された湊。旅客・商人荷物などを長門下関や上方方面へ移出する渡口として発展した。慶長年中(一五九六―一六一五)に築城された黒崎城の城主となった井上之房は同城の西麓に船入りを設け、八―九反帆船三艘・丸木船六艘・四反帆小早船六艘を置いて下関渡海・上方渡海を行っている(北九州市史)。また寛永二年(一六二五)秋月藩主黒田長興が、幕府から直接朱印状を発給してもらうため家老堀平右衛門と国を出奔した際には黒崎船三艘を雇い、前田まえだ和井田わいた(現八幡東区)の海岸から渡海したとされるなど(「八幡市史」など)、当地は早くから渡海湊として機能していたが、多くの旅客が行交う渡海湊として賑わうようになるのは元禄期(一六八八―一七〇四)以降のことである。慶安四年(一六五一)三月に郡代浜田作兵衛・黒崎代官三毛門喜左衛門・若松代官山路薩摩ら五名が連署した御証拠之写によると、黒崎、若松わかまつ(現若松区)の丸木船で旅人・荷物を漕ぎ送る際は、両所が交替で従事すること、黒崎・若松の丸木船が荷物を積送る際は、丸木船一艘につき銭一六文を黒崎船庄屋に納めることなどが定められ、正保(一六四四―四八)頃には九反帆以下の船七艘・丸木船二〇艘を保有していた(北九州市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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