麻殖保(読み)おえほ

日本歴史地名大系 「麻殖保」の解説

麻殖保
おえほ

麻殖郡内、飯尾いのお川の流域に位置した保。麻殖御領・麻殖庄ともいった。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)閏七月二二日条に「前延尉平康頼法師浴恩沢、可為阿波国麻殖保々司元平氏家人、散位之旨、所被仰也」とあり、元平氏家人で散位の平康頼が幕府から当保の保司職に補任されたことが知られる。平家方であった康頼がこのような処遇を受けたのは、康頼がかつて尾張国へ赴いた折、訪れる人もいなかった野間のま(現愛知県美浜町)の源義朝(源頼朝の父)の墓に水田三〇町を寄付、小堂を建てて六人の僧に不断念仏を修せしめたことを源頼朝が知り、そのことに酬いようとしたためという。幕府がのちに述べる地頭職だけでなく保司職も沙汰したということは、当保が平氏没官領として関東御領に編入されていたことを示している。一方で当保は内蔵寮領の便補保であったことが同書同四年三月一四日条から知られる。当時地頭に補任されていた野三成綱が保司康頼の派遣した使者入部を拒んだことから、康頼は幕府に訴えた。また成綱は内蔵寮済物の運上も抑留していたため、たびたび院宣が下されていたので、幕府は内蔵寮所済分を除いたものを康頼と成綱で中分するよう命じている。ところが地頭成綱の乱妨は依然として止まなかったことから、保司康頼は再度訴えに及び、同時に成綱の地頭職を停止する院宣を下されたことを伝えた。これに驚いた将軍源頼朝は再度成綱に領家方に対する乱妨の停止を命じている(同書同年八月二〇日条)

承久の乱後、地頭には阿波守護となった小笠原長経が補任された。しかし康頼から当保を伝領した預所左衛門尉清基は、貞応三年(一二二四)長経が事実に反し、謀反人の跡と称して当保地頭職に補任されたのはいかがなものかと返付を求めて幕府に訴えた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報