高鍋城下(読み)たかなべじようか

日本歴史地名大系 「高鍋城下」の解説

高鍋城下
たかなべじようか

[現在地名]高鍋町高鍋町・南高鍋みなみたかなべ

小丸おまる川と宮田みやだ川に挟まれた洪積台地東端の高鍋城から東方に見下ろされる沖積地に造成された城下町で、往時の町並が現在も中心街となっている。高鍋は中世には財部たからべと表記されることが多く、南北朝期には土持氏一族の所領であったと伝える。長禄元年(一四五七)土持氏は伊東氏との合戦に敗れ、当地は伊東氏が知行することとなった。落合民部少輔が財部地頭に任じられ、天正五年(一五七七)伊東氏が島津氏に敗北するまで落合氏が財部を領有していた。その後豊後に逃れた伊東氏は大友氏を頼り、再三日向奪還を目指すがならず、一方、日向を押えた島津氏は同一五年豊臣氏の軍勢に敗北した(「日向記」など)。同年七月三日豊臣秀吉は秋月種長に高鍋城を宛行っている(「豊臣秀吉朱印状」高鍋町歴史総合資料館蔵)。種長は一時福島ふくしま(櫛間、現串間市)に居城したが、慶長九年(一六〇四)高鍋に移り、家中も翌年三月に移転している(隈江家記)

慶長一二年城下西部の台地から城郭部分を独立させるため「野首ノ堀切リ普請」が始まり、同年秋には種長によって城下に祇園社(現八坂神社)が建立されている(隈江家記)。また「隈江家記」同年条に「毎年六月十三日ニ祭礼大市町」と記され、同書寛永一〇年(一六三三)条には「三月廿八日甲斐岳右衛門所ヨリ出火、高鍋城下町七十軒、石原八軒、小丸二十五軒、順礼堂一軒合テ百四軒午ノ刻一時焼失」とあり、すでにこの頃祭礼に大市が立ち、城下町が形成されていた。城下町は南北に走る一筋町で、北から松原まつばら町・ほん町・かみ町・八日ようか町・六日むいか町・十日とおか町・しも町の七町が並び、上町と八日町の境から上横かみよこ町が、十日町と下町の境から下横町(祇園町)がそれぞれ東方向へ延びている。松原町の北端から西へ曲がると洗井あれん町となっており、以上が町地であった。また松原町の北には小丸や宮越みやごえの中・下級武家屋敷が続き、六日町・十日町の東には石原いしわら蓑江みのえの中・下級武家屋敷がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報