高江村(読み)たかえむら

日本歴史地名大系 「高江村」の解説

高江村
たかえむら

[現在地名]川内市高江町

高江郷の東部を占め、東は隈之城くまのじよう宮里みやざと村、西は高江郷久見崎ぐみざき村・寄田よした村、南は日置郡串木野羽島はしま(現串木野市)、北は川内川を隔てて高城たき水引みずひき小倉こくら村。薩摩国建久図田帳に宮里郷司としてみえる紀正家(宮里氏)の兄正信が高江・宮里郡司で高江城主であり(「大隅・薩摩国古城主来由記」山門文書)、その孫正貞が高江を領し、みね(高江城)を居城として高江氏を称したとされる(「地誌備考」所載古城主由来記)。峯城は峯山みねやま小学校西方の丘陵上にあった山城である。嘉暦三年(一三二八)の新田宮沙汰証人交名注文(新田神社文書)には高江の石塚三郎入道、長崎寺浄観房らの名があげられている。南北朝期、島津時久は日向新納にいろ院を没落ののち島津貞久から薩州高江を与えられて住し、その後日向救仁くに院へ移ったという(「新納時久譜」・天文四年「新納忠勝聞書」旧記雑録)。貞治元年(一三六二)峯城で合戦があった(「地誌備考」所載旧記)。「島津国史」によれば、応安五年(一三七二)総州家の島津師久は高江郷に峯城を築城(あるいは修復か)して本拠碇山いかりやま城を襲おうとする南朝方に備え、一族の山田忠房や守護代酒匂久景を置いた。同年六月二三日峯城は南朝方の入来院(渋谷)重門をはじめとする渋谷党の攻撃を受け陥落した(峯城合戦)。この合戦で重門は飛石に当たって戦死し、城中の忠房・久景、石塚胤明も戦死した(西藩野史)。胤明は前掲交名注文にみえる石塚三郎入道の同族であろう。文中元年(一三七二)一二月二一日には重門の「峯城合戦」での討死の軍忠を賞する征西将軍宮(懐良親王)の令旨(入来院文書)が、重門の子重頼に与えられている。

応永一八年(一四一一)奥州家の島津久豊が、碇山城の島津久世・忠朝を攻撃する際、先年の萩嶺の陣のように大船二〇艘で朔日頃の高潮に乗じてくみざきの辺りや高江の川縁に漕寄せ上陸しようと計画した(応永記)。同二八年島津忠朝が鹿児島へ去ったのちは島津奥州家の勢力下に入ったらしい。文明二年(一四七〇)三月五日の山田聖栄目安状案(都城島津家文書)には、島津立久の時代になって薩州の市来いちき、羽島、高江、宮郷(宮里か)などが御料所となったと記す。同六年の行脚僧雑録(旧記雑録)では高江(峯城)に河上十郎左衛門尉とある。

高江村
たかえむら

[現在地名]新冠郡新冠町字東町あずまちよう・字節婦町せつぷちよう・字北星町ほくせいちよう・字中央町ちゆうおうちよう・字本町ほんちよう・字高江・字西泊津にしはくつ

明治初年(同二年八月から同六年の間)から大正一二年(一九二三)までの村。新冠郡の南部に位置し、西は大節婦おおせつぷ(ホロセツフ)川をもって大狩部おおかりべ村に、東から北は泊津・去童さるわらんべの両村に、南東は静内しずない下下方しもげぼう(現静内町)に接し、南西は太平洋に面する(「状況報文」など)。近世の史料にニイカップ場所の中心地で、タカヱサラ、「セツフ」(セップ)、「ヌツカ」、「ニイカツプ」(ニイカップ)ヲラリ(「廻浦日記」など)とみえる地などからなっていた。明治二年(一八六九)八月当地を含む新冠郡は阿波徳島藩の支配地となる。同四年三月この支配は解かれ、静内郡を支配地としていた徳島藩淡路洲本城代家老稲田邦稙に追加支配が命ぜられた。稲田氏は当地に役宅を建て、徳島藩から三〇余棟の建物を引継ぎ漁場経営を行ったが、同年八月新冠郡は開拓使の管轄に移行した(新冠町史)

高江村
たかえむら

[現在地名]筑後市高江

富重とみしげ村の北、やま川右岸に位置する。「和名抄」所載の三潴みづま高家たかえ郷の遺称地とする説がある。中世は三潴庄のうち。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)に「高屋村」とみえ、三潴庄鎮守大善だいぜん玉垂たまたれ(現久留米市)の五月会の朔幣料五斗を賦課されている。貞和三年(一三四七)九月二二日の玉垂宮・大善寺免田注文写(御船文書/南北朝遺文(九州編)二)によれば、当村には寺家が知行する定額田が一町あり、同月二三日の高良宮祭料神役村々注文写(同上)によれば、高良こうら宮の冬祭の頭役を勤める村の一つで、前述のように五月朔幣料五斗を賦課されていた。

高江村
たかえむら

[現在地名]泗水町豊水とよみず

久米くめ村の南にあり、上高江かみたかえ・高江(下高江)高江出分たかえでぶんの三集落からなる。上高江は合志こうし川中流域にあり、集落の南崖上は合志こうし台地の一画をなす高木原こうぎばるの畑作地帯。高江は上高江の西方にあり、水田地帯に立地。高江出分は高江の北方花房はなぶさ台地南縁部にあり、合志川流域の水田地帯に南面する。

一六世紀前半の一一月一一日付菊池義宗義武知行坪付(津野田文書)に「久米高江」とみえ、そのうち二一町を角田右衛門尉に安堵している。

高江村
たかえむら

[現在地名]気高町高江

八幡やわた村の南、逢坂おうさか谷口部東方の山麓に位置する。南は郡家こおげ村。拝領高は二九九石余、本免は四ツ三分。藪役銀五匁四分が課せられ(藩史)、天野氏・大場氏・塩見氏・高木氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数二一。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高三三七石余、竈数二〇。元文五年(一七四〇)日置ひおき谷の養郷ようごう(現青谷町)との間で養郷山の草山入会をめぐって境界を争った逢坂谷五ヵ村の一。万延二年(一八六一)異国船が渡来した折に浜村はまむら御蔵の蔵米を村へ移すための駆付民夫六人の徴用が割当てられた(在方諸事控)

高江村
たかえむら

[現在地名]大分市中判田なかはんだ 下高江しもたかえ上高江かみたかえ高江中央たかえちゆうおう一―三丁目・高江西たかえにし一―二丁目・高江南たかえみなみ一―三丁目・高江北たかえきた一―二丁目

東流する高江川の流域にあり、東は判田川を挟んで昆布刈こぶかり村。正保郷帳に村名がみえ田高三六四石余・畑高九七石余、清田きよた郷に所属。のち住床すみとこ村が分村して元禄一一年(一六九八)の御代官所郷帳(臼杵藩政史料)では高二八一石余。領主の変遷は下光永しもみつなが村に同じ。文化九年(一八一二)正月免状の閲覧などを求めてまず当村が蜂起し、延岡藩領清田組ほかの二〇余村が東方の戸無瀬となせ山に結集、東稙田ひがしわさだ・判田地域の村役人宅などを打毀した。

高江村
たかえむら

[現在地名]福部村高江

湯山ゆやま村の東、矢谷やだに川の西岸に位置し、摩尼まに山の北東山麓にあたる。細川ほそがわ池が埋立てられる以前はその南西岸に位置していた。拝領高は一九五石余、本免は五ツ七分。山役米二石余を課されており(藩史)、西館家家臣井上氏・宮田氏、米村氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数一八で、産物として細川池に産する鯉・鮒・・鰡・鰻・鯰などの魚類を列挙するが、細川村の項では細川池の消滅を記しており、埋立以前の生産状況を記したものと考えられる。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二五一石余、竈数一七。

高江村
たかえむら

[現在地名]春江町高江

九頭竜くずりゆう川の東岸、現春江町の西南端に位置する。福井藩領。中世は春近はるちか庄の地。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「針近之郷」に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方三二四石余・畠方二〇〇石。安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると、田方一六町一反で高三五七石余、畠方一二町二反で高一六六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高江村の言及

【新冠[町]】より

…川沿いに集落が散在し,市街地は新冠川の河口にある。古くは高江村とよばれ,明治初年から大部分が新冠御料牧場(新冠牧場)に含まれ管理されていたが,第2次大戦後,一般に開放された。現在は〈サラブレッドのふるさと〉といわれ,大手牧場が集中し,競走馬を育成するための日高軽種馬共同育成公社もある。…

※「高江村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」