馬飼村(読み)まかいむら

日本歴史地名大系 「馬飼村」の解説

馬飼村
まかいむら

[現在地名]祖父江町馬飼

西は木曾川を隔てて美濃に対面し、北は四貫よつぬき村、南は神明津しんみようづ村である。「うまかい」の「う」が省略されたといい、俗称を「まかえ」という。江戸時代は美濃国中島郡に属した。「濃州徇行記」では、慶長一九年(一六一四)給人付のときは毛利掃部の知行三千石の内になっていたが、正保二年(一六四五)概高制のとき替地になり、以後蔵入地になったという。四貫村・西鵜之本にしうのもと村・神明津村海西かいさい川北かわきた(現海部郡八開村)、美濃中島郡拾町野じつちようの村と一曲輪の村ゆえ濃州の地であるが、神明津輪中一円の村に取扱っており、「馬飼輪中」という呼称もある。

同書によると、川東かわひがし村を含めて概高五六〇石四斗余、田一一町七反余・畑二七町五反余、家数九九、人数四四二、正受しようじゆ寺は一向宗東派とある。

馬飼村
まかいむら

[現在地名]笠岡市馬飼

絵師えし村の北にあり、応神おうじん山の東山裾に開けた集落。「備中誌」は幕末の歌人関政三千の説として、「古しへの馬戸なりし処にて或は牧子護丁に充られ又は調草に充られし物にて其名の残れる地名なるへし」と載せる。元和五年(一六一九)備後福山藩領となり、以降の領主の変遷は笠岡村に同じであったと考えられる。寛永備中国絵図では高一〇八石余。正保郷帳では日損大・草山少と注記がある。延宝二年(一六七四)富岡とみおか新田開発にあたって、当地に富岡村の用水溜池(新涯池)が築造され、福山藩領時代には度度普請入用があった(天保九年「富岡村明細帳控」坂本文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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