飛鳥村(読み)あすかむら

日本歴史地名大系 「飛鳥村」の解説

飛鳥村
あすかむら

[現在地名]平田町飛鳥

最上川と同支流相沢あいさわ川との合流点右岸より西に延び、東は楢橋ならはし村、西は砂越さごし村。相沢川を境に南は相沢新田村(現松山町)。地名は東端にある飛鳥神社に由来。南東端の飛鳥神内かみないには奈良―平安時代の集落跡がある。東端にある長者ちようじや町は相沢川の自然堤防の高台に位置し、「延喜式」に載る飽海駅の所在地に比定されている。同駅は現最上郡鮭川さけがわ真木まきに比定される佐芸さき駅と現遊佐ゆざ大楯おおだてに比定される遊佐駅を取次ぐ駅で、駅馬一〇匹を常備する中路であった。佐芸駅には駅馬四匹と舟一〇艘が備えられていたから、佐芸駅と当駅の間はおもに水路を使って往来(延喜式)、水行の困難なときは馬で坂本さかもとから与蔵よぞう峠を越える道(与蔵越)を使ったと思われる。近世には酒田から松山城下を通り清川きよかわ(現東田川郡立川町)に至る最上街道が当村を通り、村東端には一里塚があった。明和四年(一七六七)には酒田と当村間の馬賃銭は八〇文、歩行夫一人につき四三文、駕籠一七二文(「御用留帳」野附文書)。飛鳥神社前に追分石があり「向道右ハまつ山きよ川、左ハ山中と鳥海」と刻まれている。なお相沢川の渡守は文政二年(一八一九)には甚作、渡場茶屋は三十郎であった(「家業付并村方より他村江奉公人書上」大町溝文書)

元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高三八八石余。寛永元年庄内高辻帳では高九七一石余。元和八年以来庄内藩領であったが、寛永九年(一六三二)村高のうち二六八石余が加藤忠広領となる(残りは庄内藩領で幕末に至る)。承応二年(一六五三)同領は幕府領となり、元禄二年(一六八九)まで庄内藩預地となった。

飛鳥村
あすかむら

[現在地名]羽曳野市飛鳥

こまたに村の南東に位置する。古代安宿あすかべ賀美かみ(和名抄)の地。春日かすが山西麓のいま池・しん池一帯はサヌカイト散布地域で(今池・新池遺跡)国府こう遺跡(現藤井寺市)で検出された石器の材料採集地ならびに製作所跡。

江戸時代は古市郡に属し、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高三九五石余、小物成として山年貢米八斗余・山年貢銀四四匁。

飛鳥村
あすかむら

[現在地名]掛川市下垂木しもたるき

さか川の支流倉真くらみ川と垂木川の間にあり、西は下垂木村。戦国期には飛鳥郷とみえる。寛永一六年(一六三九)中宿なかじゆく村を分村したという(掛川誌稿)。「万葉集」巻一四に載る相聞歌「明日香川下濁れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔しも」に詠まれる明日香川を当地の川とする説がある。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高五〇六石余。元和五年(一六一九)以降は掛川藩領。

飛鳥村
あすかむら

[現在地名]各務原市蘇原飛鳥町そはらあずかちよう蘇原清住町そはらきよずみちよう蘇原北山町そはらきたやまちよう

市域北部のきた山と山の間の丘陵に位置し、幾つかの洞が生活の場である。各務かかみ郡に属し、南は古市場ふるいちば村、南西は伊吹いぶき村。かつて古市場村の枝郷であったという(新撰美濃志)。村名は蘇我倉山田石川麻呂の命名と伝える。字溝東みぞひがし花軒はなのきに溜池があり、溝東は条里遺構を示す地名という。慶長郷帳に村名がみえ、高一二九石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では堀直寄(越後長岡藩)領。同七年尾張藩領となり(明暦覚書)、幕末に至る。

飛鳥村
あすかむら

[現在地名]青森市飛鳥

東は陸奥湾、南は夏井田なついだ村、西は中山なかやま山脈で小田川おだがわ(現北津軽郡金木町)、北は瀬戸子せとし村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に高四二八・九三石とある。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、村高五八一・八四四石、うち田方五六五・〇五二石、畑方一六・七九二石とあり、ほかに漆木一本が記され、この検地の詳細であることが知られる。元禄三年(一六九〇)には油川組に属し、村位は下である(平山日記)。享和二年(一八〇二)伊能忠敬の「測量日記」に家数二九とある。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、寛政七年(一七九五)に一七三石、文化五年(一八〇八)に九二・二石の新田高が書上げられている。

飛鳥村
あすかむら

[現在地名]明日香村大字飛鳥

甘樫あまかし丘東方、飛鳥川右岸に位置する。古代「飛鳥」の地。飛鳥神名火かんなび・飛鳥川上かわのへ・飛鳥寺・飛鳥川原など、「飛鳥」の名を冠する地名はおおむねこの地域に所在することになる。

文禄検地による村高は四八二石。検地奉行石田正澄。寛文四年(一六六四)高六二・三一四石を東山ひがしやま村に分割、村高四二三・七八六石となる。近世を通じて高取藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報