飛驒国(読み)ひだのくに

改訂新版 世界大百科事典 「飛驒国」の意味・わかりやすい解説

飛驒国 (ひだのくに)

旧国名。飛州。現在の岐阜県の北部。

東山道に属する下国(《延喜式》)。8世紀初頭まで斐太,斐陀と表記したが,702年(大宝2)4月に大瑞(だいずい)とされた神馬貢進を契機に,708年(和銅1)前後に飛驒の用字が公定された。古墳は,5世紀半ばの円墳に始まり,6世紀初めに畿内的な前方後円墳が登場する。《日本書紀》仁徳天皇65年条の,両面をもつという宿儺(すくな)の征討伝承は,中央勢力の浸透に抵抗した在地勢力の姿を核にした伝承であろう。6世紀に斐陀国造(ひだのくにのみやつこ)の任命や部民の設定がある。律令体制の郡は古川盆地以北の荒城(あらき)郡と,高山盆地以南の大野郡と2郡であった。国府は古川盆地南部から2005年の合併以前の旧高山市内に移ったと推測される。飛驒国の民衆は調・庸を免除される代りに,里ごとに匠丁10人を中央へ貢進する全国唯一の特殊な負担を背負った。いわゆる飛驒工(ひだのたくみ)である。870年(貞観12)12月,大野郡南部を割いて益田(ました)郡が建てられた。
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平治の乱で敗れた源義朝の子義平は飛驒に逃れ再挙を図ったというが,平安末期以来,鎌倉期に至るも武士団の発展を知る史料はなく,鎌倉幕府地頭も1193年(建久4)楽人多好方が荒城郷地頭に補任されたことを知るのみである。鎌倉期の守護に関する徴証も皆無だが,建武政権下には新田氏同族岩松経家が飛驒守護に任じられており,それ以前北条氏所領であったことが推測されている。荘園についても河上荘,白河荘の2荘の存在が確認されるのみで,国衙領の長期にわたる残存が指摘される。

 岩松氏の守護在任期間は未詳だが,1359年(正平14・延文4)以降は代々佐々木京極氏が守護となり,一方,建武政権下復活された国司にははじめ伊達行朝が,次いで姉小路氏が就任した。姉小路氏はやがて伊勢北畠氏,土佐一条氏とともに世に三国司と称され大名化するが,1411年(応永18)姉小路尹綱が広瀬常登とともに南朝の再起を図って挙兵,討死した。その後同氏は古河城に拠る古河家,小島城に拠る小島家,向小島城に拠る小鷹利家に分裂し,互いに離合を繰り返す。その間,京極氏被官三木(みつき)氏が南飛驒に台頭,萩原桜洞城を拠点に大永年間(1521-28)には高山盆地へ進出した。

 以後,高原川流域を拠点とする江馬氏,白川地域の内ヶ島氏,古川盆地の姉小路3氏,国府盆地の広瀬氏などのほか各地の小領主を交え,また白川照蓮寺,高原聞名寺を中心に教線を伸ばした浄土真宗勢力や,織田・上杉・武田等周辺戦国大名の勢力の影響をうけつつ,飛驒も戦国の時代となる。その中からやがて三木氏が伸張して姉小路の名跡と飛驒国司号を継ぎ,織田信長死後は独立権力として運動しはじめる。1582年(天正10)には江馬氏,翌83年には広瀬氏を倒し,三木氏は白川地域の内ヶ島氏を除いてほぼ飛驒全域の覇者となったが,85年豊臣秀吉の派した金森長近の軍に抗戦,敗北した。同年大地震で内ヶ島氏の帰雲城も没落,翌86年には広範な飛驒の小領主連合の蜂起があったが,それも金森氏に鎮圧され,飛驒の中世は終わった。
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1586年(天正14),秀吉から飛驒一国を与えられた金森長近は高山城を建築し,領国経営を開始した。長近は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦には東軍に加わり,戦後徳川家康によって本領を安堵されるとともに美濃,河内に2万3000石を加増された。長近は美濃上有知(こうずち)に移り,2代可重(ありしげ)が飛驒支配に当たった。以後1692年(元禄5)まで,飛驒一国は高山藩金森氏の支配下にあった。飛驒3郡(吉城,大野,益田)の総石高は3万8764石余(1605)。しかし豊富な鉱山,山林資源を保有していたため金森氏の実収は多く,1613年に内高が4万5789石余,さらに34年(寛永11)には3代金森重頼が〈金山領〉3万石分を含めて9万石相当の軍役を務めることを幕府に申し出るほどであった。だが金森氏時代の飛驒については具体的な状況を伝える史料が乏しく,不明な点が多い。なお初代長近が白川郷にあった浄土真宗の大坊照蓮寺を高山に移転させているが,これによって,もともと優勢であった真宗勢力が領主的保護を受けて国中に広まり,近世における飛驒民衆の信仰に多大の影響を及ぼした。

 1692年6代金森頼旹(よりとき)が出羽上山に移ると飛驒は幕府に収公され,高山に陣屋を置く飛驒代官(1777年飛驒郡代昇格)の管轄下に入った。初代代官伊奈忠篤は高山藩時代の遺制改替に努める一方,金森氏の下級家臣84人を地役人に登用し,おもに鉱山,山林支配を分掌させている。1694年から翌年にかけて実施された総検地では,総石高4万4469石余。のち代官大原紹正(つぐまさ)による1773-74年(安永2-3)の検地では5万5500石余に増加するが,しかし国中の村数415ヵ村,家数1万5822戸,人口8万4780人(1843)に比すればきわめて低い数値である。ここに端的に示される農業生産力の低さが,近世の飛驒にさまざまな特質を与えている。すなわち第1に〈家抱(けほう)〉〈門屋(かどや)〉と呼ばれる隷属農民を多数残存せしむるとともに,白川郷の事例等でよく知られる大家族制を存続させる要因ともなった。第2に村の自立が妨げられ,数ヵ村を1人の名主が兼帯することが多く,また前代以来の〈郷〉が依然として重要な地域単位となっていた。第3に幕領支配の特質として,年貢米の江戸輸送がまったくなされないという特殊な事例となり,逆に他国から大量の米穀移入を必要としたために,国境の口留番所に維持して物資の流通を統制することが代官(郡代)支配の重点的施策となっていたのである。

 近世前期に隆盛を極めた鉱業林業も,幕領期には衰退の方向に向かった。鉱山経営では,高山藩時代に開発が進んだ金・銀山が急速に衰え,かわって銅・鉛山の稼行が主となったが,それらも全体に小規模な経営に終始した。林業の方も,18世紀初めに江戸商人の請負稼による伐採が進んだ結果,山林資源が消耗し,18世紀後半以降は地元住民による〈元伐稼〉も一時中断し,再開後も規模は大幅に縮小した。1771年(明和8)から88年(天明8)の18年間に断続的に勃発した百姓一揆(大原騒動)は,代官大原紹正の検地強行が主要な原因であったが,〈元伐稼〉を中断され,さらにその代償の〈山方御救米〉まで廃止されたことに対する山方住民の憤懣もその大きな要因であった。鉱業,林業の衰退の一方で,近世後期に主要産業となったのが,養蚕,製糸,絹織物業である。1857年(安政4)の他国売出品の調査によれば,総額約5万両(鉱産物を含まず)のうち,生糸が3万6000両,紬が6720両にも及んでいる。そして生糸・紬等の買付けや,逆に他国からの日常生活物資の売込みのため,他国商人の往来がはげしく,高山の町がその中心地として急速に発展したほか,古川,萩原,小坂等の在郷町も物資の集散地として成長を遂げた。中でも高山商人の広域的な活動はめざましく,〈旦那衆〉と呼ばれる豪商たちを生み出した。またこうした経済的発展の中で,高山町人の中から国学者田中大秀(本居宣長門下)らの文化人が輩出し,飛驒の文教面での発展に影響を与えた。明治維新期の政治的場面で活躍する高山町人,地役人らの中には大秀の門人が少なくない。

 1868年(明治1)維新政府軍の入国によって幕領支配が終わり,飛驒は政府の直轄地となる。はじめ美濃の笠松裁判所(次いで笠松県)管下の一部に編入されるが,同年5月飛驒県設置,翌月には高山県と改称された。初代知県事梅村速水の急進的な改革の失敗により,翌69年2月から3月にかけ大原騒動とならぶ一国規模の百姓一揆(梅村騒動)が起こり,梅村知県事は銃撃を受けて京都に退去を余儀なくされている。この後71年,高山県は信濃の筑摩県に編入,76年に及んで岐阜県の管轄となった。
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世界大百科事典(旧版)内の飛驒国の言及

【飛驒郡代】より

…はじめ飛驒代官。飛驒国全体と美濃,越前,加賀の一部を管轄した。1692年(元禄5)幕府は高山藩主金森氏を出羽上山に移封し,豊富な山林・鉱山資源を有する飛驒一国を直轄化して,高山に陣屋を置き代官支配を開始した。…

【飛驒山】より

飛驒国(岐阜県の北半)は山国であるうえに,近世の飛驒が山林王国として知られたことに由来する通称。古代の飛驒は飛驒工(ひだのたくみ)の出身地で,当時これらの工匠はおもに宮や官寺などの建築と用材の採運に使役された。…

【百姓稼山】より

…多くは〈御林(おはやし)〉の一部か村持ちの共用林かであるが,いずれにも一定の採取制限と,山手・山銭名義の軽租または収益料を納めるのを普通とした。飛驒国で中世末のころから行われた百姓稼山(白木稼ともいう)は,領主の御林山で用材を採出した跡に放置された残材(根木,末木,悪木,枝条など)を処理して,各種の白木類(短軽材や割材)を再生産するか,または御林内の枯損木(立枯木や風・雪折木など)から家作木や白木・薪などを採出して,近隣諸国にまで売りさばくことを免許された稼山をいう。この稼山製品には山役人の検木と,採材量に応じた運上の負担が義務づけられていた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」