飛驒郡代(読み)ひだぐんだい

改訂新版 世界大百科事典 「飛驒郡代」の意味・わかりやすい解説

飛驒郡代 (ひだぐんだい)

江戸時代,幕府直轄領を管掌した地方官の一つ。はじめ飛驒代官。飛驒国全体と美濃越前加賀の一部を管轄した。1692年(元禄5)幕府は高山藩主金森氏を出羽上山に移封し,豊富な山林鉱山資源を有する飛驒一国を直轄化して,高山に陣屋を置き代官支配を開始した。初代から3代までの代官は関東郡代伊奈氏が兼任,4代森山実道から専任となる。7代長谷川忠崇の1738年(元文3)以降,常時高山に在陣となった。77年(安永6)12代大原紹正(つぐまさ)のとき,打出し検地の功により布衣郡代に昇進,以後幕末に至る。飛驒郡代の役料は400俵,江戸城では躑躅(つつじ)間詰。通例禄高150俵程度の旗本が就任した。管轄地は,飛驒一国3郡(寺領は除く)は一貫して変わらず,1695年に4万4400石余,1774年の検地以降5万5500石余,ほかに1726年(享保11)ごろ以降美濃の一部,67年(明和4)以降越前の一部が加わり,美濃加茂郡下川辺村と越前丹生郡本保(ほんぼ)村に出張陣屋が置かれた。さらに加賀のうち越前国境の諸村が加わるなど,飛驒以外の管轄地には変動があったが,1805年(文化2)には4ヵ国で総石高10万4200石余(ほかに美濃,越前に預所4000石余)にも及んだ。郡代の下僚は,58年(安政5)23代増田頼興の例によると,江戸詰手付手代が10人,以下高山詰5人,本保詰7人,下川辺詰2人で,ほかに高山陣屋には地役人34人が属している。この地役人はもと金森氏の下級家臣で,初代代官伊奈忠篤によって登用されたものである。代々世襲し,特殊な知識と経験を必要とする鉱山・山林関係の職務や口留番所の管理を主務とした。はじめ84人であったが,1789年(寛政1)13代大原正純が,いわゆる大原騒動の責を問われ遠島処分に付されたときに多数解職され,以後三十数名に減員した。1868年(明治1)1月,官軍の飛驒入国を前に25代新見正功が江戸に逃走し,これによって飛驒郡代の支配は終焉した。

〈飛驒郡代高山陣屋文書〉約2万4000点が,現在岐阜県歴史資料館(岐阜市)に所蔵されている。内容は,郡代から幕府勘定所への伺書,各掛地役人の役所日記,御用留をはじめ,管内各村から提出された村明細帳,宗門人別帳や土地・租税,山林,鉱山,治安関係史料など多岐にわたり,中でも山林関係史料は充実している。幕領代官所の史料がまとまって伝存する例は少なく,貴重な史料群である。ほかに陣屋所在地高山の町政史料(町年寄日記,願書留等)が高山市郷土館に現存し,町の側から郡代支配の動向をみることができる。刊行史料としては《岐阜県史》史料編近世1~9がある。同書近世2に所収の〈飛驒郡代地方演説書〉〈飛驒郡代木方其他演説書〉(高山市郷土館所蔵)は20代郡代豊田友直が作成した詳細な政務引継書類であり,郡代支配の沿革実情をよく伝えている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の飛驒郡代の言及

【地役人】より

…浪人や下級藩士から抱え入れられ,職務内容も支配地に対応し多様であった。幕末には美濃・飛驒郡代のもとに堤方役・山林掛地役人頭取,同じく但馬・石見・陸奥代官には運上蔵役・直入役・銀山付役人組頭,寄床屋番・銀見役,関東代官には関所番・小菅囲内定番・浦賀蔵番,大津代官には大津蔵番・湖上船改下役などがおり,禄高は30俵以下が大半であった。佐渡奉行所では格式で定役と並役に分かれ,1624年(寛永1)には302人を数えた。…

※「飛驒郡代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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