青田村(読み)あおたむら

日本歴史地名大系 「青田村」の解説

青田村
あおたむら

[現在地名]本宮町青田

荒井あらい村の北西に位置する。村域は本宮盆地に含まれ、北西部は山地が多く南東部はおおむね平坦。寛文九年(一六六九)岩色いわいろ堰の延長によって通水、そのほか溜池で灌漑している。本宮宿方面から仁井田にいだ村を経て二本松街道(会津街道)が東西に通ずる。南部に青田原の原野が広がる。地名はもとは太田おおたといい、「相生集」弓矢巻本宮陣の条に「太田原に陣を立つ」とある。「松藩捜古」に文禄三年(一五九四)六月の当村の検地帳が収載されているが、それには「二本松郡太田村御検地帳」とある。北西部の字日記沢につきざわ付近から瀬戸せと川が東流し阿武隈川に注ぐが、瀬戸川に架かる人取ひととり橋を中心に青田原から字庄司しようじにかけての一帯で、天正一三年(一五八五)人取橋合戦が展開された(相生集)

青田村
あおたむら

[現在地名]山形市青田・青田一―五丁目・青田南あおたみなみ東青田ひがしあおた一―五丁目・鳥居とりいおかあさひおか中桜田なかさくらだ一―二丁目

上桜田村の西に位置し、りゆう山北西麓の平地に立地。北境を瀧山りゆうざん川が西流する。岩波石行いわなみしやくぎよう寺蔵の文和二年(一三五三)三月九日書写の大般若経の奥書に「下大山庄粟生田郷若松正法房百巻料旦那也」とあり、この粟生田あおた郷は当地のこととみられる。文正二年(一四六七)一一月吉日の伊達尚宗渡状案(国分文書)によれば、尚宗は粟生田郷を国分河内守に知行安堵している。

青田村
あおたむら

[現在地名]二宮町青田

太田おおた村・古山こやま村の北にある。応永二五年(一四一八)と推定される七月一二日の足利持氏書状(皆川文書)に「長沼庄内(中略)青田郷半分」とみえる。同書状によればこれ以前に関東公方足利持氏は、長沼義秀の訴えにより長沼ながぬま庄内の同所や混布嶋こぶしま郷、いずみ郷半分などに対する混布嶋下総の狼藉停止を下野守護結城禅貴(基光)に命じたが、実効がないためこの日再度停止を命じている。

青田村
あおたむら

[現在地名]新井市青田

青田南葉あおたなんば(九四九・三メートル)の東山麓、矢代やしろ川支流の青田川右岸に位置し、東は飛田ひだ村、北は上門前かみもんぜん(現上越市)に接する。正保国絵図村名があり、天和三年郷帳に高三七七石八斗余、うち山高一石二斗五升とある。集落北の字僧り田そりだに真宗大谷派の上野山得法とくほう寺があり、天正一四年(一五八六)本願寺光佐の弟子祐玄が、越中国新川にいかわ郡に住し、東西分派のとき頸城くびき田中たなか(現上越市)に移り、本山光寿から寺号を許され、寛永九年(一六三二)火災にあい、青田村に移転して再建したという。

青田村
あおだむら

[現在地名]金屋町青田

沼田ぬただ村の西方早月はやつき谷の入口に位置する。西は小川おがわ村の吉田よしだ早月谷はやつきたに川南の耕地は日陰が多く湿地で、集落は谷に近い北斜面にある。慶長検地高目録によれば村高八二石余、小物成二斗一升六合。本堂ほんどう生石おいし明神(現五名生石神社)の氏下で、同社の元和四年(一六一八)勧進帳(上続家蔵)には当村の寄進者一一名が記される。

青田村
あおだむら

[現在地名]山南町青田

下滝しもたき村の枝村で篠山川を隔てて同村と対峙する。「氷上郡志」に元禄八年(一六九五)に分村したとあるが、元禄郷帳に当村の記載はみられない。「丹波志」では旗本諏訪領として高一六九石余。産土神は大歳おおとし神社で、妙楽みようらく(現廃寺)があった(氷上郡志)。同社では毎年一〇月九日・一〇日の秋祭に伊勢神楽系の獅子神楽を奉納する。

青田村
おうだむら

[現在地名]飯高町青田

大俣おおまた村の西、青田川に沿う。青田川は当村の東方ではちす川に合流する。元禄一五年(一七〇二)新田畑午改帳(徳川林政史蔵)に「青田村」と記されている。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数三六、人数二〇〇。「一、銀弐拾四匁 木地挽役銀」の記載は、山間部の村ゆえに、木地屋系譜をひく産業が行われていたことをうかがわせる。

青田村
あおたむら

[現在地名]八郷町青田

小桜こざくら川左岸にあり、東は弓弦ゆづり村、南は泉沢いずみさわ村。弘安大田文に北郡として「青田五十丁」とある。江戸初期に下総関宿藩領(寛文朱印留)、貞享四年(一六八七)から土浦藩領となり(土浦市史)、のち旗本領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報