陸村(読み)くがむら

日本歴史地名大系 「陸村」の解説

陸村
くがむら

[現在地名]相生市陸・陸本町くがほんまち栄町さかえまち垣内町かきうちちよう山手町やまてちよう・山手一―二丁目・菅原町すがはらちよう本郷町ほんごうちよう大石町おおいしちよう汐見台しおみだい

相生おお村の北、池之内いけのうち村の西、那波なば(現相生湾)に注ぐ苧谷おこく川・鮎帰あゆかえり川流域の山地・丘陵地および平地に立地する。南部を山陽道が通り、当地で赤穂へ至る道が分岐する交通上の要地であった。陸地・六地、また久賀(「行程記」山口県文書館蔵)とも記される。北境の光明こうみよう山北麓を古山陽道が通っていた。文永元年(一二六四)八月二一日の海老名頼保所職等譲状(海老名文書)に、矢野やの庄例名内浦分の北限として「二倉ノ峯ヲ糺シ天、光明山率都婆辻エムケテ、布施エトヲル道」とみえる。布施ふせ(現龍野市)へ通じていた。

陸村
くがむら

[現在地名]庵治町 北村きたむら井谷いだに宮東みやひがし地頭名じとうみよう原の内はらのうち馬治うまじ松尾まつお湯谷ゆや

庵治半島の内陸部に位置し、五剣ごけん(三六六・二メートル)北麓の井谷・湯谷などの谷ごとに集落があった。庵治陸村ともいう。宝蔵院古暦記(松浦文書)の承平六年(九三六)の項に「阿知万願寺」とみえ、至徳二年(一三八五)書写満願寺大般若経(願成寺蔵)奥書に「讃州山田郡庵治郷」とあるが、「和名抄」など古代には郷名は確認できない。戦国期に辺見源左衛門が庵治城に拠った(庵治町史)。寛永国絵図は庵治・庵治鎌野あじかまのを庵治浦とし、高八四六石とある。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳には記載がなく、同一九年の高松領小物成帳には庵治浦の綿三八〇目一分と、庵治村の塩三三石五斗八升八合が記されているが、塩はすべてはま村分とみられ、綿は当村分も含んでいると考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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